木原村(読み)きばらむら

日本歴史地名大系 「木原村」の解説

木原村
きばらむら

[現在地名]山武町木原、八街市木原

椎崎しいざき村の北西に位置し、作田さくだ川が南東流する。川の南に木原新田がある。中山法華経寺の日祐の「一期所修善根記録」によると、日祐は延文元年(一三五六)などに千葉胤継や当地の住人と思われる「木原氏女」「木原」らとともに身延参詣を行っている。永正年間(一五〇四―二一)千葉勝胤(輪覚)は椎崎氏に当地の中台なかだいなどの年貢一五貫文を与えている(年未詳三月二三日「輪覚書状写」井田家文書)。天文三年(一五三四)の日淳付属状(正覚寺文書)には日胤(千葉胤貞の親類)が木原郷に在住していたことを記す。「本土寺過去帳」には蓮行(宍倉大和守)が天正一五年(一五八七)一月二一日に木原で没したとある。宍倉ししくら城跡は古宿ふるやどにあり、曲輪は単郭で東西約四〇メートル・南北約三〇メートル。一六世紀中頃に宍倉家が築城したと考えられる。

文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高八一七石。正保国絵図では高八四三石。慶長九年(一六〇四)の山野辺庄木原郷検地帳(宍倉家文書)では田六八町一反余(うち上田二一町四反余・中田一五町九反余・下田二七町一反余・田永三町五反余)・畑一九町八反余(うち上畑一町余・中畑四町六反余・下畑一三町二反余・畑永八反余)、ほかに永荒地の田五反余・畑四反余、名請人九八(うち屋敷持四二)

木原村
きはらむら

[現在地名]富合町木原

雁回がんかい(木原山)の北東麓にあり、「きわら」とも発音する。東から北東にかけて六田ろくた阿高あだか両村(現城南町)と接し、隈庄くまのしよう(現同町)から雁回山東麓をめぐって宇土うと半島へと通ずる幹線交通路がある。南は山頂を境に宇土郡佐野さの(現宇土市)、北は榎津えのきづ村、西は平原ひらばる村と接する。緑川・浜戸はまど川両河川流域一帯の平野を眺望しうる要衝の地である。木原古墳群は箱式石棺墓や小円墳が点在し、西蔵にしくら遺跡には支石墓があり、甕棺も数十基発見された。古墳時代には比較的大きな集落が形成され、浜戸川流域一帯に分布する古代文化圏の最西端部に位置したと考えられる。

古代末期、在地領主木原広実を首領とする木原一族が、国庁館を襲撃して目代に瀕死の重傷を負わせ、そのうえ公物の稲・米を奪取している(年未詳「肥後国某訴状写」高野山文書)。広実は自らを「大将軍」と称し、行動範囲は矢部やべ(現上益城郡矢部町)から詫磨西たくまにし郷の木部きべ(現熊本市)八代北やつしろきた(現小川町・松橋町・豊野村)豊福とよふく(現松橋町)などと、かなり広域に及ぶ。

木原村
きわらむら

[現在地名]清武町木原

加納かのう村の南に位置し、東流するおか川と北流する水無みずなし川が村の北西部で南流する清武川に合流、村域は東流する清武川両岸および北部・南部の小高い丘陵地からなる。村の西部の黒坂くろさかを北上する飫肥おび街道が通り、加納村上中野かみなかのに向かう。キハラともよばれる。江戸時代は飫肥藩領清武郷に属した。南北朝初期、伊東祐重の所領として国富くどみ庄内に「木原八十町」がある(日向記)。文安五年(一四四八)木原は伊東氏の一族清武祐恩の知行であったが、それを継承した祐憲から伊東氏家督の伊東祐尭が知行を奪い、加納・船曳ふなひきなどとともに伊東氏家督の知行に移った(同書)。戦国期の伊東氏領下の社領を書上げた弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)に、舟引ふなひき八幡宮(現船引神社)の社領として木原のうちの「をの下」二反、田吉たよし一宮(現宮崎市の恒久神社)の社領として木原一反が付けられていた。

木原村
きのわらむら

[現在地名]智頭町木原きはら

三田井上みたいのうえ村の南にあり、土師はじ川左岸に集落が発達する。同川を隔てた東向いは三明みあけ村、南は横田よこた村。横田村との境に突き出た尾根の上には木原氏累代の居城であった唐櫃からびつ城跡がある。文明一二年(一四八〇)二月一五日、木原善棟は重代相伝の「木原名」を息子おき法師に譲り渡している。この譲状(因幡志)によれば同名は東は大川(土師川)、南は「いとい谷」の溝、西・北は三田を境としていた。また同日、善棟はおき法師の弟若法(師)には千土師ちはじ郷東分として福武ふくたけ名と木原名内の屋敷を譲っている(「木原善棟譲状」同書)。享禄二年(一五二九)四月一九日、木原元信(善棟の孫か)は木原亀松に「智頭郡千土師郷分木原名職」を譲り渡しているが、このときの木原名の四至は東は大川、西は「三田坂井(境)山ノ大峯」、南は「ユワイ谷横田山々ネチミソ」、北は「三田ウネホキ坂井」を限りとしていた(「木原元信譲状」因幡民談記)

木原村
きわらむら

[現在地名]袋井市木原

山名やまな郡に所属。川井かわい村の西、西田にしだ村の北、宇刈うがり川が原野谷はらのや川に合流する地点と太田おおた川との中間の平地に立地する。東海道が通る。地内許禰こね神社は「延喜式」神名帳の同名社に比定する説がある。利仁としひと神社(現埼玉県東松山市)より出土した鏡(東京国立博物館蔵)の銘に、建久七年(一一九六)二月日の年紀とともに「遠州山名郡木原郷」とみえ、もと木原郷住人であった藤原某が寄進していた。天文二三年(一五五四)五月一六日、今川義元は赤尾あかお長楽ちようらく寺に「山名庄木原権現供僧免」六段ほかを安堵している(「今川義元判物写」木原権現由来記)。木原権現とは許禰神社に熊野権現が勧請されて、社名を木原権現と通称したという(同書)。当地は山名庄に含まれていた。年月日未詳の熊野本宮神領覚書(紀伊続風土記)に「木原 一貫二百」とみえ、紀州那智山熊野本宮五所灯明領であった。

木原村
きはらむら

[現在地名]三原市木原町・奥野山おくのやま町・はちみね

東野ひがしの村の東にあり、瀬戸内海に面する。村名はかつて村内に桃の木が多く植えられ、桃の木原もものきはらと称されたことによると伝える。御調みつぎ郡に属した。北は鉢ヶ峰に連なる山地で吉和よしわ(現尾道市)山中やまなか村に接する。山麓緩傾斜面に耕地が広がり福地ふくち内畠うちばたけ赤石あかいしの集落を形成。川はいずれも短く急流である。海岸沿いを近世の山陽道が通る。今川了俊の「道ゆきぶり」に「海中に木ぶかき小島二ならびたり、是なんくぢら島といふなり、年ごとのしはすにくぢらといふうを多く寄りきつゝ、又のとしのむ月に又かへり侍るとなん、是はこゝにいます神の誓にてかく侍ると、海人どもの申也」と記すくじら島は、岩子いわし(現御調郡向島町)の西にあって当村に属した。

木原村
きはらむら

[現在地名]豊富村木原

上大鳥居かみおおとりい村の東、ほぼ北流して笛吹川に注ぐ七覚しつかく川の左岸に広がる丘陵地に位置する。東方の対岸は右左口うばぐち(現中道町)。西方には笛吹川の支流浅利あさり川が流れ、対岸は上大鳥居村。集落は高部たかべ宇山うやま近くの丘陵部中木原なかぎはらのほか、浅利川近くにも形成されていた。「一蓮寺過去帳」によると宝徳二年(一四五〇)頃の一月八日に木原の陵阿弥陀仏の供養が行われている。天正一七年(一五八九)一一月一九日、浅利氏一族の中沢主税助は木原郷内に五〇九俵余の知行地を認められている(「伊奈忠次知行書立写」譜牒余録)

木原村
きはらむら

[現在地名]橿原市木原町

耳成山西麓、よね川南方に立地。「延喜式」神名帳十市郡の「目原坐高御魂神社二座並大、月次新嘗」に関して「五郡神社記」に「目原村近代作木原」とあるが、式内社は現太田市おだいち町の天満神社に比定されている。

文禄四年(一五九五)検地奉行新庄直忠。江戸初期は旗本別所孫次郎領。慶長郷帳の村高四二二・六九石。元和二年(一六一六)同氏の改易で幕府領(代官間宮三郎右衛門)、同五年郡山藩(松平忠明)領、同藩の二割半無地高増政策で村高五二九・二三八石。

木原村
きわらむら

[現在地名]穴水町木原

日詰ひづめ川支流の水源地である木原岳山麓にあり、南は藤巻ふじまき村、東は山越えで伊久留いくろ村。白山神社蔵の応永二九年(一四二二)一一月の紀年銘をもつ鰐口(上野国医音寺旧蔵)の追銘によれば、永禄元年(一五五八)五月「鳳至郡山田新田内木原村」の堂下五郎兵衛盛家が、願主となって白山宮に寄進している。堂下盛家は上野国から来住した当村の草分百姓と伝え、大屋おおや庄内山田やまだ(現能都町)の新開地であった。天正一三年(一五八五)の白山神社蔵棟札に五郎兵衛盛家の名があり、寛永一四年(一六三七)の同社再興棟札には、その子の四郎兵衛・五郎兵衛の名がみえる。

木原村
きばるむら

[現在地名]竹田市城原きばる

おか城下から久住くじゆう(現久住町)への道に沿い、木原組の主邑であった。岡城下から二里半余。直入なおいり郷木原名の遺称地。正保郷帳では長田ながた郷に属し、田方二九三石余・畑方二七八石余で、柴山有・日損所と注記される。元禄郷帳も同高で、キバラと読みを付している。天保郷帳では高七〇七石余に激増。弘化物成帳では木原組のうち、村位は中、免六ツ九分、田四四石余(四町五反余)・畑五一石余(九町五反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はほとんどなく、開畑二石余(四町余)がある。

木原村
きはらむら

[現在地名]美浦村木原

大須賀津おおすかづ村の西に位置し、霞ヶ浦に面する。中世は信太しだ庄に属し、西側の台地に近藤氏が木原城を築いて支配した。江戸時代は天領・旗本領で、元禄郷帳の村高は一千二二八石余。幕末は天領四九三石余、旗本大久保氏領二九六石余、一色氏領二一六石余、鈴木氏領二四七石余(各村旧高簿)

漁業も行われ、慶安三年(一六五〇)七月晦日付の霞浦四拾八津連判掟書(土浦市立図書館蔵)にある連判の小津頭には「木原村 七郎右衛門」の名前がみえ、元禄五年(一六九二)四月一三日の霞ケ浦四十八津連判訴状案(舟串家文書)に「牧野備後守殿 木原村伝衛門」とある。同一六年九月一六日の霞ケ浦四十八津返答口上書(同文書)には「組頭木原村七郎右衛門」、享保一一年(一七二六)一一月の霞ケ浦浦方議定書(同文書)に「組頭木原村」とある。

木原村
きはらむら

[現在地名]佐賀市北川副町きたかわそえまち大字木原

下今宿町しもいましゆくまちの南東一帯。木原古賀きはらこが武藤たけふじ安住あんじゆうなどの集落があり、木原には日枝ひえ神社・阿弥陀あみだ寺、武藤には岩松軒がんしようけんなどがある。

河上神社文書の河上社文書紛失状の中に、安元二年(一一七六)の河上宮現役所課神田坪付注文案があり、「七条木原里十七坪内」の六段の土地を五月五日の節句の御供と饗膳料にあてることが記されている。木原が条里制の下で佐賀郡の七条に位置していることがわかる。

木原村
きはらむら

[現在地名]国府町木原

大茅おおかや山南麓に位置する。ふくろ川を挟んで南西は下木原村。古くは「きのはら」と称し、木野原村とも記された(因幡民談記)。元禄一四年(一七〇一)下木原村が枝郷として分村したため(「変地其外相改目録」県立博物館蔵)、以後は上木原村とも称された(在方諸事控)。拝領高は一二九石余、本免は七ツ一分。「因幡志」によれば家数一一。弘化二年(一八四五)の作人二〇・出奉公人四(「作人帳」井上家文書など)

木原村
きわらむら

[現在地名]八木町字木原

東は玉井たまのい村、南は池之内いけのうち村、北は室河原むろがわら村、西は上口人かみくちうど(現園部町)に続く。北と南に山を負い、中央部が水田となっている。古くは「絹原」と記したとも伝える。亀山藩領。

室町時代の様子を描くとされる丹波国吉富庄絵図(真継梶之助家蔵)に「木原村」とあり、南方には山を隔てて「野口牧」が記される。

木原村
きのはらむら

[現在地名]五條市はら

畠田はたけだ村北方に所在。西は紀伊国。「紀伊続風土記」に「待乳山今大和に属す。紀和の界古今の別ありて所謂信土山は古は両国の堺なり、故に古人其地を紀州とも和州ともいふ、今其地大和宇智郡に属するより後人古今の別なる事知らず」とある。

木原村
こわらむら

[現在地名]大野町藤北ふじきた 木原

丸山まるやま村の南西にある。正保郷帳に村名がみえ、田高二六七石余・畑高一五五石余、藤北郷に属し、柴山有、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高二二〇石余。

木原村
きばらむら

[現在地名]八街市木原、山武郡山武さんぶ町木原

大木おおぎ村の南に位置し、作田さくだ川が南東流する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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