日本歴史地名大系 「木原村」の解説
木原村
きばらむら
文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高八一七石。正保国絵図では高八四三石。慶長九年(一六〇四)の山野辺庄木原郷検地帳(宍倉家文書)では田六八町一反余(うち上田二一町四反余・中田一五町九反余・下田二七町一反余・田永三町五反余)・畑一九町八反余(うち上畑一町余・中畑四町六反余・下畑一三町二反余・畑永八反余)、ほかに永荒地の田五反余・畑四反余、名請人九八(うち屋敷持四二)。
木原村
きはらむら
古代末期、在地領主木原広実を首領とする木原一族が、国庁館を襲撃して目代に瀕死の重傷を負わせ、そのうえ公物の稲・米を奪取している(年未詳「肥後国某訴状写」高野山文書)。広実は自らを「大将軍」と称し、行動範囲は
木原村
きわらむら
木原村
きのわらむら
木原村
きわらむら
- 静岡県:袋井市
- 木原村
木原村
きはらむら
- 広島県:三原市
- 木原村
木原村
きはらむら
木原村
きはらむら
木原村
きわらむら
木原村
きばるむら
木原村
きはらむら
漁業も行われ、慶安三年(一六五〇)七月晦日付の霞浦四拾八津連判掟書(土浦市立図書館蔵)にある連判の小津頭には「木原村 七郎右衛門」の名前がみえ、元禄五年(一六九二)四月一三日の霞ケ浦四十八津連判訴状案(舟串家文書)に「牧野備後守殿 木原村伝衛門」とある。同一六年九月一六日の霞ケ浦四十八津返答口上書(同文書)には「組頭木原村七郎右衛門」、享保一一年(一七二六)一一月の霞ケ浦浦方議定書(同文書)に「組頭木原村」とある。
木原村
きはらむら
木原村
きはらむら
木原村
きわらむら
木原村
きのはらむら
木原村
こわらむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報