観心寺(読み)カンシンジ

デジタル大辞泉 「観心寺」の意味・読み・例文・類語

かんしん‐じ〔クワンシン‐〕【観心寺】

大阪府河内長野市寺本町にある高野山真言宗の寺。山号は檜尾ひのお山。大宝年間(701~704)役小角えんのおづのの創建と伝える。はじめ雲心寺と称したが、弘仁年間(810~824)空海が再興し、観心寺と改める。貞観11年(869)清和天皇勅願の定額寺。のちに後醍醐ごだいご天皇の尊信を得たため、南朝文書を多数所蔵する。楠木氏の菩提寺。金堂・如意輪観音像・観心寺縁起資材帳は国宝。

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精選版 日本国語大辞典 「観心寺」の意味・読み・例文・類語

かんしん‐じクヮンシン‥【観心寺】

  1. 大阪府河内長野市寺元にある高野山真言宗の寺。山号は檜尾山。大宝年間(七〇一‐七〇四)役小角(えんのおづの)が創建した雲心寺を空海が再興、天長四年(八二七)、弟子の実慧(じちえ)が開山となり改称した。後村上天皇の行宮跡、楠正成の首塚など南朝の史跡で有名。金堂は和様に大仏様(だいぶつよう)、禅宗様を加味した観心寺様で、如意輪観音坐像、観心寺縁起資財帳とともに国宝。

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日本歴史地名大系 「観心寺」の解説

観心寺
かんしんじ

[現在地名]河内長野市寺元

河内長野市の市街地から南東方へ約三キロ、石見いしみ川河谷の北岸に位置する。檜尾山と号し、高野山真言宗に属する。本尊は秘仏の木造如意輪観音菩薩坐像(国宝、平安時代前期)。境内は国指定史跡。

〔開創〕

寺伝によれば、大宝年間(七〇一―七〇四)役小角が開創し、初め雲心寺と号したという。いわゆる葛城修験の道場として開創されたものであろう。次いで空海が巡錫して北斗七星を勧請し、また一刻三礼して本尊を刻み、七体の仏像を鋳造したという。このことを伝える承和四年(八三七)三月三日付の観心寺縁起実録帳写(観心寺文書、以下特記しない場合はすべて同文書)は、錦部にしごり郡山中一千町・石川郡以南五〇〇町を寺領と記し、律令制の原則に照らしても同年の文書を写したとするには問題があるが、長治二年(一一〇五)一〇月日付河内国司庁宣案に「件御寺者、弘法高祖建立」と記し、後醍醐天皇も「大師御作不動」を召寄せているように(元弘三年一〇月二五日付後醍醐天皇綸旨など)当寺が空海の遺跡であり、空海が仏像も刻んだことは、平安時代以来広く信じられた伝承であった。高野山往還の途次、空海が当寺域に巡錫することは当然あり得たことと思われる。

右の観心寺縁起実録帳写よりは、史料的にはるかに信頼度が高い元慶七年(八八三)九月一五日付の観心寺勘録縁起資財帳(国宝)には、開創の事情などを記した太政官符などが引用され、次のように述べられている。すなわち、空海の門弟実恵が建立、天長二年(八二五)から実恵の門弟真紹が居住して道場の建立を進め、観心寺と号した。そして真紹の申請によって承和三年の太政官符により、東限犬尾滝、西限小仁深谷、北限竜泉寺りゆうせんじ(現富田林市嶽山)の敷地一五町ばかりが許可された(南限は記入なし)。次いで同一〇年には河内国守(遥任の時は介)をもって当寺の俗別当と定められ、さらに貞観一一年(八六九)真紹の奏状により定額寺に列せられ、また真紹の師資相承と定められた。以上が資財帳に記す開創当初の事情である。なお禅林・観心両寺座主職相承次第(東寺文書)は建立を天長四年とし、また貞観一〇年正月二三日に真紹は観心寺、禅林ぜんりん(現京都市左京区)を宗叡に付属しているが(「権少僧真紹付属状」書陵部所蔵文書)、同じく天長四年に光師実恵が建立したとし、前掲資財帳に引く太政官符とやや異同がある。なおまた後に北畠親房は、実恵の当寺建立は当地に巡錫した空海の付属によるもので、実恵の墳墓が当寺にあるとしており(正平三年八月二二日付北畠親房自筆願文)、実恵は檜尾和尚・檜尾僧都とよばれ、のちに道興大師と追号された。

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改訂新版 世界大百科事典 「観心寺」の意味・わかりやすい解説

観心寺 (かんしんじ)

大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺。山号は檜尾山。寺伝では大宝年中(701-704)に役行者が草創し,初め雲心寺と称したと伝える。808年(大同3)空海がこの地を巡錫したとき境域に北斗七星を勧請し,815年(弘仁6)七星如意輪観音(しちせいによいりんかんのん)を刻して本尊とし観心寺と改称したと伝承する。《権少僧都真紹付属状》(868)によれば827年(天長4)空海の孫弟子真紹が山野を切り開いて堂舎を建立したと記録しており,《観心寺勘録縁起資財帳》(883)には真紹の師実恵(じちえ)の建立として観心寺の創建に実恵の影響の大きかったことを物語っている。創建当初は如法堂・講堂・経蔵・宝蔵・僧房・大衆院などの建物が存し,主要堂宇に真言密教草創期の仏像や仏画・仏具が収められていた。とくに資財帳に記載のある〈綵色如意輪菩薩像一軀〉は現本堂(金堂)安置の本尊如意輪観音(国宝)であると推定されている。869年(貞観11)定額寺に列せられた。そののち南北朝時代には南朝楠木氏との結びつきが強く,空海作と伝える不動明王像を後醍醐帝の請により宮中へ進めたり,楠木正成を奉行として金堂の建立が行われた。また後村上天皇は1359年(正平14・延文4)本格的な南征計画を知って天野山金剛寺の行宮より観心寺に移り,塔頭(たつちゆう)惣持院を行宮とした。翌年住吉へ遷幸し,68年(正平23・応安1)崩じて遺言により観心寺檜尾陵に葬せられた。
執筆者:

金堂(国宝)は1378年(天授4・永和4)の《観心寺参詣諸堂巡礼記》に近年造立とあり,このころに平安時代建立の前身堂の部材を再利用して建て替えたものと考えられる。再建当初は仮屋根であったが,1439年(永享11)に大改造を行い,装飾的細部は室町中期の様式をもつ。規模は桁行7間,梁間7間で,内部の前面2間通りを外陣,中4間を内陣,背面1間通りを後陣とする。内陣後寄り中央3間を厨子状とし本尊如意輪観音を安置し,須弥壇(しゆみだん)をめぐらす。須弥壇の前面左右には両界曼荼羅を描いた板壁を設けて灌頂堂としての機能をもつ。この堂の様式は大仏様,禅宗様系の細部を和様に採り入れた折衷様の代表的な例である。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「観心寺」の意味・わかりやすい解説

観心寺
かんしんじ

大阪府河内長野(かわちながの)市寺元(てらもと)にあり、高野山真言宗に属する寺。檜尾山(ひのおざん)と号する。大宝(たいほう)年間(701~704)役行者(えんのぎょうじゃ)が創建し、初め雲心(うんしん)寺と号したが、827年(天長4)空海の弟子実慧(じちえ)が真紹(しんじょう)とともに寺塔を建立して観心寺と改めた。これより実慧を開山とし、のち定額寺(じょうがくじ)となって発展した。南北朝時代には南朝との関係が深く、建武(けんむ)新政(1334)のとき楠木正成(くすのきまさしげ)が奉行(ぶぎょう)となって金堂の外陣(げじん)を再建し、別に三層塔を建立しようとしたが、工事なかばで湊川(みなとがわ)に戦死し、現在、未完の楠公建掛塔(なんこうたてかけのとう)(国の重要文化財)が残っている。ついで後村上(ごむらかみ)天皇の行宮(あんぐう)となったこともあり、同天皇の御陵がある。その後、畠山(はたけやま)氏が篤信(とくしん)して護持に努めたが、織田信長が寺領を減じてやや衰微した。しかし豊臣(とよとみ)秀吉が寺領を加え、秀頼(ひでより)が寺塔の修理をなして復興し、のち享保(きょうほう)年間(1716~36)にも修理が行われた。天保(てんぽう)年間(1830~44)には有栖川宮(ありすがわのみや)の祈願所となり、徳川氏も寺領を寄進した。このように開創以来いくたびか盛衰はあったが、なお多くの堂塔、彫刻、絵画、工芸品、古文書を残し、密教の霊場として、また南朝の史跡として有名である。

 現在、鎌倉時代の様式を伝える金堂は国宝、室町末期の訶利帝母(かりていも)天堂、桃山時代の書院は国の重要文化財に指定されている。本尊の如意輪観音菩薩坐像(にょいりんかんのんぼさつざぞう)(国宝)は平安初期の作で、彩色六臂(ろっぴ)像の秘仏である。そのほか、霊宝館に金銅の釈迦(しゃか)像、観音像(以上は奈良時代作)や、試作如意輪観音像、四天王像はじめ聖観音(しょうかんのん)、十一面観音、地蔵菩薩(以上は平安前期作)、薬師、釈迦、宝生(ほうしょう)、弥勒(みろく)の諸像(以上は平安後期作)など国の重要文化財の仏像群を収めている。また『観心寺勘録縁起資財帳』(国宝)はじめ、後醍醐(ごだいご)、後村上、長慶(ちょうけい)、後亀山(ごかめやま)の4天皇、楠木正成・正行(まさつら)、北畠親房(きたばたけちかふさ)、畠山・三好(みよし)・松永の諸氏、豊臣秀吉・秀頼などの古文書、遺物など多数を蔵し、古文書は観心寺文書(国の重要文化財)として知られる。なお境内には、実慧の廟(びょう)、本願堂、大楠公(だいなんこう)首塚、七星(しっしょう)塚、大講堂などがある。

[勝又俊教]

『『古寺巡礼 西国2 観心寺』(1981・淡交社)』

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百科事典マイペディア 「観心寺」の意味・わかりやすい解説

観心寺【かんしんじ】

大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺。境内は国指定史跡。空海の弟子実恵とその弟子真紹が826年―827年創建。国宝の金堂は室町初期に再建されたもので,和様を主体として随所に唐様(からよう),天竺(てんじく)様をとり入れた折衷様建築の代表的遺構。金堂本尊の如意輪観音像は一木造,極彩色で,平安初期密教像の代表作。
→関連項目河内長野[市]金剛山(日本)白玉粉

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「観心寺」の意味・わかりやすい解説

観心寺
かんしんじ

大阪府河内長野市にある真言宗の寺。山号は檜尾 (ひのお) 山。空海の弟子実慧が天長年間 (824~833) に創建したと伝えられるが,現在の金堂 (本堂) は天授4 (1378) 年頃の再建で,和様を基礎とし禅宗様と大仏様の両方を採入れた折衷様で,国宝。後醍醐天皇や後村上天皇のあつい帰依を受けて,一時行宮となったこともある。本尊の国宝『如意輪観音坐像』は平安時代前期のもので,極彩色を施した木像。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「観心寺」の解説

観心寺
かんしんじ

大阪府河内長野市寺元にある真言宗の寺。檜尾山と号す。天武朝に役小角(えんのおづの)が開創,雲心寺と称したという。815年(弘仁6)空海が再興し観心寺と改号。869年(貞観11)清和天皇の勅願で定額寺(じょうがくじ)となる。金堂は後醍醐天皇が討幕祈祷の賞として1334年(建武元)再建したものといい,南朝との関係が深く南朝文書(「観心寺文書」)が多い。

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旺文社日本史事典 三訂版 「観心寺」の解説

観心寺
かんしんじ

大阪府河内長野市寺元にある真言宗の寺
奈良時代,役小角 (えんのおづぬ) の創立と伝えられる。9世紀初頭に空海が再興。南北朝時代には南朝と関係が深かった。本尊の『如意輪観音像』(国宝)は平安初期の密教彫刻の代表作で,豊満な姿態を持つ。一木造で彩色がよく残る。『観心寺勘録縁起資財帳』(国宝)も貴重である。

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デジタル大辞泉プラス 「観心寺」の解説

観心寺

大阪府河内長野市にある寺院。高野山真言宗。山号は檜尾山。大宝年間(701~704)創建と伝わる。古くは雲心寺と称した。本尊の如意輪観音菩薩、金堂(いずれも国宝)など、数多くの文化財を保有。

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事典・日本の観光資源 「観心寺」の解説

観心寺

(大阪府河内長野市)
大阪みどりの百選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の観心寺の言及

【朝用分】より

…半済が年貢の半分であったのに対し,3分の1の徴収であった。河内観心寺領同国小高瀬荘は朝用分料所になっていたが,1359年(正平14∥延文4)返付された。その手続は,観心寺の要請,右大将中院通冬の御教書,朝用分給人と思われる某正幸の承認請文を経て,後村上天皇綸旨,一品宮令旨の同日発布によって完了している。…

※「観心寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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