河内長野市の市街地から南東方へ約三キロ、
寺伝によれば、大宝年間(七〇一―七〇四)役小角が開創し、初め雲心寺と号したという。いわゆる葛城修験の道場として開創されたものであろう。次いで空海が巡錫して北斗七星を勧請し、また一刻三礼して本尊を刻み、七体の仏像を鋳造したという。このことを伝える承和四年(八三七)三月三日付の観心寺縁起実録帳写(観心寺文書、以下特記しない場合はすべて同文書)は、
右の観心寺縁起実録帳写よりは、史料的にはるかに信頼度が高い元慶七年(八八三)九月一五日付の観心寺勘録縁起資財帳(国宝)には、開創の事情などを記した太政官符などが引用され、次のように述べられている。すなわち、空海の門弟実恵が建立、天長二年(八二五)から実恵の門弟真紹が居住して道場の建立を進め、観心寺と号した。そして真紹の申請によって承和三年の太政官符により、東限犬尾滝、西限小仁深谷、北限
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺。山号は檜尾山。寺伝では大宝年中(701-704)に役行者が草創し,初め雲心寺と称したと伝える。808年(大同3)空海がこの地を巡錫したとき境域に北斗七星を勧請し,815年(弘仁6)七星如意輪観音(しちせいによいりんかんのん)を刻して本尊とし観心寺と改称したと伝承する。《権少僧都真紹付属状》(868)によれば827年(天長4)空海の孫弟子真紹が山野を切り開いて堂舎を建立したと記録しており,《観心寺勘録縁起資財帳》(883)には真紹の師実恵(じちえ)の建立として観心寺の創建に実恵の影響の大きかったことを物語っている。創建当初は如法堂・講堂・経蔵・宝蔵・僧房・大衆院などの建物が存し,主要堂宇に真言密教草創期の仏像や仏画・仏具が収められていた。とくに資財帳に記載のある〈綵色如意輪菩薩像一軀〉は現本堂(金堂)安置の本尊如意輪観音(国宝)であると推定されている。869年(貞観11)定額寺に列せられた。そののち南北朝時代には南朝楠木氏との結びつきが強く,空海作と伝える不動明王像を後醍醐帝の請により宮中へ進めたり,楠木正成を奉行として金堂の建立が行われた。また後村上天皇は1359年(正平14・延文4)本格的な南征計画を知って天野山金剛寺の行宮より観心寺に移り,塔頭(たつちゆう)惣持院を行宮とした。翌年住吉へ遷幸し,68年(正平23・応安1)崩じて遺言により観心寺檜尾陵に葬せられた。
執筆者:木下 密運
金堂(国宝)は1378年(天授4・永和4)の《観心寺参詣諸堂巡礼記》に近年造立とあり,このころに平安時代建立の前身堂の部材を再利用して建て替えたものと考えられる。再建当初は仮屋根であったが,1439年(永享11)に大改造を行い,装飾的細部は室町中期の様式をもつ。規模は桁行7間,梁間7間で,内部の前面2間通りを外陣,中4間を内陣,背面1間通りを後陣とする。内陣後寄り中央3間を厨子状とし本尊如意輪観音を安置し,須弥壇(しゆみだん)をめぐらす。須弥壇の前面左右には両界曼荼羅を描いた板壁を設けて灌頂堂としての機能をもつ。この堂の様式は大仏様,禅宗様系の細部を和様に採り入れた折衷様の代表的な例である。
執筆者:宮本 長二郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大阪府河内長野(かわちながの)市寺元(てらもと)にあり、高野山真言宗に属する寺。檜尾山(ひのおざん)と号する。大宝(たいほう)年間(701~704)役行者(えんのぎょうじゃ)が創建し、初め雲心(うんしん)寺と号したが、827年(天長4)空海の弟子実慧(じちえ)が真紹(しんじょう)とともに寺塔を建立して観心寺と改めた。これより実慧を開山とし、のち定額寺(じょうがくじ)となって発展した。南北朝時代には南朝との関係が深く、建武(けんむ)新政(1334)のとき楠木正成(くすのきまさしげ)が奉行(ぶぎょう)となって金堂の外陣(げじん)を再建し、別に三層塔を建立しようとしたが、工事なかばで湊川(みなとがわ)に戦死し、現在、未完の楠公建掛塔(なんこうたてかけのとう)(国の重要文化財)が残っている。ついで後村上(ごむらかみ)天皇の行宮(あんぐう)となったこともあり、同天皇の御陵がある。その後、畠山(はたけやま)氏が篤信(とくしん)して護持に努めたが、織田信長が寺領を減じてやや衰微した。しかし豊臣(とよとみ)秀吉が寺領を加え、秀頼(ひでより)が寺塔の修理をなして復興し、のち享保(きょうほう)年間(1716~36)にも修理が行われた。天保(てんぽう)年間(1830~44)には有栖川宮(ありすがわのみや)の祈願所となり、徳川氏も寺領を寄進した。このように開創以来いくたびか盛衰はあったが、なお多くの堂塔、彫刻、絵画、工芸品、古文書を残し、密教の霊場として、また南朝の史跡として有名である。
現在、鎌倉時代の様式を伝える金堂は国宝、室町末期の訶利帝母(かりていも)天堂、桃山時代の書院は国の重要文化財に指定されている。本尊の如意輪観音菩薩坐像(にょいりんかんのんぼさつざぞう)(国宝)は平安初期の作で、彩色六臂(ろっぴ)像の秘仏である。そのほか、霊宝館に金銅の釈迦(しゃか)像、観音像(以上は奈良時代作)や、試作如意輪観音像、四天王像はじめ聖観音(しょうかんのん)、十一面観音、地蔵菩薩(以上は平安前期作)、薬師、釈迦、宝生(ほうしょう)、弥勒(みろく)の諸像(以上は平安後期作)など国の重要文化財の仏像群を収めている。また『観心寺勘録縁起資財帳』(国宝)はじめ、後醍醐(ごだいご)、後村上、長慶(ちょうけい)、後亀山(ごかめやま)の4天皇、楠木正成・正行(まさつら)、北畠親房(きたばたけちかふさ)、畠山・三好(みよし)・松永の諸氏、豊臣秀吉・秀頼などの古文書、遺物など多数を蔵し、古文書は観心寺文書(国の重要文化財)として知られる。なお境内には、実慧の廟(びょう)、本願堂、大楠公(だいなんこう)首塚、七星(しっしょう)塚、大講堂などがある。
[勝又俊教]
『『古寺巡礼 西国2 観心寺』(1981・淡交社)』
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大阪府河内長野市寺元にある真言宗の寺。檜尾山と号す。天武朝に役小角(えんのおづの)が開創,雲心寺と称したという。815年(弘仁6)空海が再興し観心寺と改号。869年(貞観11)清和天皇の勅願で定額寺(じょうがくじ)となる。金堂は後醍醐天皇が討幕祈祷の賞として1334年(建武元)再建したものといい,南朝との関係が深く南朝文書(「観心寺文書」)が多い。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…半済が年貢の半分であったのに対し,3分の1の徴収であった。河内観心寺領同国小高瀬荘は朝用分料所になっていたが,1359年(正平14∥延文4)返付された。その手続は,観心寺の要請,右大将中院通冬の御教書,朝用分給人と思われる某正幸の承認請文を経て,後村上天皇綸旨,一品宮令旨の同日発布によって完了している。…
※「観心寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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