日本歴史地名大系 「木曾村」の解説 木曾村きそむら 福島県:耶麻郡山都町木曾村[現在地名]山都町 木曾・川口(かわぐち)・蟹沢(かにざわ)・腰巻(こしまき)・向川原(むかいかわら)・大田(おおた)・弥左ヱ門田(やざゑもんだ)・久弥花(くやばな)・清水尻(しみずじり)・清水上(しみずかみ)・墓(はか)ノ後(あと)・古屋敷(ふるやしき)・清水向(しみずむかい)・小山(こやま)・下川原(しもがわら)・江戸塚(えどづか)・上(うえ)ノ原道東(はらみちひがし)・上(うえ)ノ原道西(はらみちにし)・蔵(くら)ノ後(あと)・葎田(むぐろだ)・五十苅(ごじゆうがり)・中新田(なかしんでん)・広中新田(ひろなかしんでん)・新田間々(しんでんまま)・畑新田(はたしんでん)・石打場(いしうちば)・上石打場(かみいしうちば)・馬放場(うまはなしば)・上馬放場(かみうまはなしば)・下株丁(しもかぶちよう)・株丁(かぶちよう)・大深沢道下(おおふかさわみちした)・大深沢堰上(おおふかさわせきうえ)・大深沢(おおふかさわ)・畑平下(はただいらした)・株丁下(かぶちようした)・上株丁(かみかぶちよう)・梨木平(なしのきだいら)・大深沢向(おおふかさわむかい)・滝(たき)ノ沢出口(さわでぐち)・三十苅(さんじゆがり)・枯山沢出口(かれやまさわでぐち)・枯山沢入(かれやまさわいり)・枯山沢(かれやまさわ)・入山(いりやま)・上湯沢(かみゆさわ)・広雨沼(ひろあまぬま)・雨沼(あまぬま)・門松前(かどまつまえ)・鷹待場(たかまちば)・堂峰(どうみね)・上谷地上(うわやちがみ)・遠新田(とおしんでん)・下新田(しもしんでん)など現山都町の南西部、阿賀川と一(いち)ノ戸(と)川の合流地点北側の河岸段丘上にあり、西に接する広野(ひろの)村とは田地も入組み一村のようになっていた。古くは集落は三町ほど南にあったが、寛文元年(一六六一)現在地に移ったという(新編会津風土記)。 木曾村きそむら 東京都:町田市木曾村[現在地名]町田市木曾町・矢部町(やべまち)・旭町(あさひまち)一―二丁目山崎(やまさき)村の南にある。原町田(はらまちだ)から境(さかい)川沿いに北上して矢部八幡(矢幹八幡)の前を通って相原(あいはら)へ抜ける道は、木曾の上宿(かみじゆく)で鎌田(かまた)坂・宮川(みやがわ)橋を通過して鎌倉街道小野路(おのじ)宿につながる奥州古道と交差している。「武蔵名勝図会」によれば、寿永二年(一一八三)源頼朝と木曾義仲の和解の手段として義仲子息志水冠者義高が人質となって鎌倉入りする際、木曾に淹留して八幡を造営したと伝える。下宿(しもじゆく)に図師(ずし)郷半沢(はんざわ)から移った本山派修験で通称覚円(かくえん)坊という吉祥山達蔵(たつぞう)院住善(じゆうぜん)寺があった(現廃寺)。近江園城(おんじよう)寺の覚円開基の塔頭達蔵坊に始まり(康平六年創立)、その本尊聖観音が山門と寺門の抗争のなかで流転していたが、観応二年(一三五一)武州法印源性(明徳三年没)が京都聖護(しようご)院参勤の折に請い受けて、木曾義仲の縁地に移し、達蔵院覚円坊と号したという(仲庵記・風土記稿)。矢部八幡宮の別当であるとともに熊野信仰の推進役でもあった。もと覚円坊墓地(石川家敷地)に貞治七年(一三六八)二月長阿銘の阿弥陀三尊種子板碑、応永二年(一三九五)銘の阿弥陀種子板碑など数基の板碑がある。本町田(ほんまちだ)の大沢家蔵大沢氏系図に、大沢正祝(永享元年没の正長の父)の生母が木曾村の郷士三沢五郎左衛門の娘と記される。北条氏所領役帳の他国衆小山田弥三郎の知行のうちには「四拾五貫五百七十文 木曾」と記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by