若松城下(読み)わかまつじようか

日本歴史地名大系 「若松城下」の解説

若松城下
わかまつじようか

川右岸の小丘陵を基礎にしてつくられたつるヶ城を中心とする城下町。現在の会津若松市のほぼ中心市街地にあたる。「会津旧事雑考」文和三年(一三五四)条に「或記曰小高木館立始云今小田垣之字也」とあるが、小田垣おだがき(小高木)は現在の鶴ヶ城の東側の地名で、貞治三年(一三六四)一〇月七日実相じつそう寺に「河沼郡藤倉村内了仙在家一宇田一町」を寄進した小高木惣領帯刀左衛門尉景兼(「大庭景兼在家売券案」新編会津風土記)という地方豪族の館であったと考えられる。蘆名氏との関係は不明である。同書の至徳元年(一三八四)条によれば、康暦元年(一三七九)に「直盛始会津下向幕内三年、移小館二年、其後後小松院至徳元年甲子移小田山町号黒川」と記されているが、小田山は小田垣の誤りであろう。しかし富田家年譜(宗英寺蔵)によれば、直盛の会津下向は貞和四年(一三四八)二三歳のときと記され、翌五年に直盛が新宮明継と戦った小松合戦と照応する。「異本塔寺長帳」によれば、文和三年に直盛は「会津黒川小田里小田木城ヲ築」いたと記される。「小田木城」は小田山おだやま城のことで、現在の花見はなみヶ丘のあたりであろう。直盛は康暦元年飯寺にいでら館に移り、三年後に館に移って、至徳元年(一三八四)東黒川ひがしくろかわ(のちの鶴ヶ城)に入ったという。康暦元年以前に小高木館の北と西方に、諏訪神社・当麻たいま寺・興徳こうとく寺・実相寺・如法によほう寺・寿福じゆふく寺などの寺社が存在していることを考えれば(会津旧事雑考)、この地域はすでに蘆名氏の勢力範囲になっていて、蘆名氏の支配権の拡大が小館から小高木館への移住となったと思われる。

〔城下の形成〕

蘆名氏の城下町黒川はしだいに増大していき、大永四年(一五二四)七月には黒川の馬場ばば町とおお町が、同七年にはみなみ町と宇都宮うつのみや町が焼けたとの記録があるので(会津旧事雑考)、この頃には城下の町割も行われていたと推定される。「伝蘆名時代黒川城絵図」によると、当時湯川は城の東側で二分し、南側を流れる現在の流域押切おしきり川と称し、北側を流れるくるま川は興徳寺の北を西流し、町西端で押切川と合流している。黒川城(前身は東黒川館)は二つの川に囲まれてやや南側に位置し、城の北には重臣らの居宅が並び、南は寺社地になっていた。永禄三年(一五六〇)蘆名盛氏が会津領内に初めて徳政を行い、同一〇年には通貨に永楽銭を通用せしめているが(塔寺長帳)、城下の商業・金融の発展を示すものであろう。天正四年(一五七六)盛氏が黒川の大商人簗田氏に商品の駄賃に関する定や、商品に対する課税の定などを与えている(簗田家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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