朝日日本歴史人物事典 「本多忠央」の解説
本多忠央
生年:宝永5(1708)
江戸中期の若年寄。正徳1(1711)年12月,三河国挙母藩(愛知県豊田市)藩主就任。寛延2(1749)年2月遠江国相良(静岡県相良町)に転封。同7月寺社奉行。宝暦4(1754)年美濃国郡上藩(岐阜県郡上八幡町)では,年貢増徴を企図。藩主金森頼錦の縁者たる忠央を通じ勘定奉行大橋親義に接近し,大橋が推挙した者に年貢増徴を行わせたが,農民はそれに反対し一揆を起こした。この一揆は,同8年7月評定所の吟味となった。同年3月,忠央は既に西丸若年寄に就任していたが,関係者としての責任を問われ,同9月罷免,10月改易となる。一揆が原因で改易となった稀有な例である。<参考文献>山田忠雄「宝暦―明和期の百姓一揆」(『日本経済史体系』4巻)
(安藤優一郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報