杭庄(読み)くいのしよう

日本歴史地名大系 「杭庄」の解説

杭庄
くいのしよう

京都伏見稲荷社領の荘園で、現久井町の江木えぎ下津しもつ吉田よしだ莇原あぞうばらいずみ和草わそう羽倉はぐら一帯を荘域とする。成立の時期などは不明であるが、伏見稲荷が正一位に任ぜられた天慶三年(九四〇)以降で、他の同社領荘園の成立とほぼ同じ平安後期と推定される。当庄を伏見稲荷社に寄進した開発領主はこの地に稲荷社(江木の稲生神社)を勧請し、その神官となり荘務を担当したものと思われる。

観応二年(一三五一)二月一五日付の足利尊氏下文(三吉鼓文書)によると、三吉覚弁が当庄の北西部を占める泉村地頭職を宛行われているが、それは波佐竹四郎二郎跡とあり、荘内に以前から地頭職があったことが知られる。覚弁は、在地の小文十郎一族が濫妨を働いて地頭職を干犯していると、文和二年(一三五三)幕府に訴えている(同文書)。応安四年(一三七一)と思われる四月一六日付の今川了俊書状(熊谷家文書)によると、九州探題で備後・安芸守護職を兼務した了俊の九州下向に三吉道秀が従わなかったため、その処置をすべく熊谷直氏と談合する場所に杭庄を指定している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

4月1日の午前中に、罪のないうそをついて人をかついでも許されるという風習。また、4月1日のこと。あるいは、かつがれた人のこと。四月ばか。万愚節。《季 春》[補説]西洋もしくはインドに始まる風習で、日本...

エープリルフールの用語解説を読む