日本歴史地名大系 「杭庄」の解説
杭庄
くいのしよう
京都伏見稲荷社領の荘園で、現久井町の
観応二年(一三五一)二月一五日付の足利尊氏下文(三吉鼓文書)によると、三吉覚弁が当庄の北西部を占める泉村地頭職を宛行われているが、それは波佐竹四郎二郎跡とあり、荘内に以前から地頭職があったことが知られる。覚弁は、在地の小文十郎一族が濫妨を働いて地頭職を干犯していると、文和二年(一三五三)幕府に訴えている(同文書)。応安四年(一三七一)と思われる四月一六日付の今川了俊書状(熊谷家文書)によると、九州探題で備後・安芸守護職を兼務した了俊の九州下向に三吉道秀が従わなかったため、その処置をすべく熊谷直氏と談合する場所に杭庄を指定している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報