稲生神社(読み)いなりじんじや

日本歴史地名大系 「稲生神社」の解説

稲生神社
いなりじんじや

[現在地名]久井町江木 宮之本

江木えぎの中心地の北側にある丘陵亀甲きつこう山に鎮座。京都伏見稲荷大社の社領であったくい庄八ヵ村(江木・下津・吉田・莇原・泉・羽倉・和草、和草のうち黒河)の村民によって祀られる神社。通称「久井の稲生さん」。祭神は宇迦之御魂大神・和久産巣日大神・火産巣日大神・弥都波能売大神・大物主大神。相殿に天照大御神を祀る。旧村社。もと稲荷宮(稲荷神社)と書いたが、明治一二年(一八七九)に稲生神社と改めた。なお、神社明細帳(広島県庁蔵)には、同四年の調査のとき稲生と改字したとある。

社伝によると、天慶元年(九三八)伏見稲荷の分霊を勧請したもので、もとは下津しもつはら谷の杭田くいだに社殿があったというが、現在地に遷祀した時期などは不明。弘治三年(一五五七)に毛利元就が本殿を再建したといい、「御調郡誌」所収の棟札写によると、永禄三年(一五六〇)三月一二日に、大檀那小早川隆景、奉行行武房実・末近通忠、施主野上・原田の両氏によって社殿が造営されたことが知られるが、天正一五年(一五八七)頃灰燼に帰し、同二〇年一一月二日に野上長門守が社殿を再興したという。近世には杭庄八ヵ村は広島藩家老で三原城主浅野氏の給知であったため同氏によって社殿が造営され、同氏のほか藩主浅野氏も度々社参している。「芸藩通志」に昔は一二町余の神田があったと記す。

社記によると、注連頭が江木の亀甲山神宮じんぐう(現廃寺)祠官が秦吉光・祝白貞光、別当が猪儀兼政・門田利春、行法が下津の硫黄山箱石はこいし(現廃寺)で、注連のうちに社人九人、禰宜・巫子ら一八人があり、供僧寺約一〇宇があったという(芸藩通志)

稲生神社
いなりじんじや

[現在地名]世羅西町上津田 宮本

津田つた盆地のやや西寄り北部山麓に南面して鎮座する。祭神は宇気母知神・素盞嗚尊・吉備津彦・市杵島姫命。旧村社。もと津田郷の郷社で、寛永一一年(一六三四)九月の「稲荷日記」(社蔵)によると、下津田の明神山しもつたのみようじんやま城主金築七郎の家臣中村光重が、大永二年(一五二二)京都の伏見稲荷を勧請し、現社地南の大須佐おおすさ山に小祠を営んだが、永禄一二年(一五六九)八月、大笹山おおささやま(跡地は現双三郡吉舎町)城主大江元教を大檀那として現在地へ移したという。

一〇月(もと旧暦九月)八日、九日が祭日神殿入の神事を伝える(県指定無形民俗文化財)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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