コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

山名政豊 やまな まさとよ

3件 の用語解説(山名政豊の意味・用語解説を検索)

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

山名政豊 やまな-まさとよ

1441-1499 室町-戦国時代の武将。
嘉吉(かきつ)元年生まれ。山名教豊(のりとよ)の子(一説に弟)。但馬(たじま)守護。文明5年祖父持豊の死去で山名氏の惣領(そうりょう)となる。6年細川政元と和議をむすび,応仁(おうにん)の乱を終息にみちびく。11年但馬にかえり近隣の反乱を鎮圧,のち播磨(はりま)の領地回復をはかって赤松政則と合戦をかさねた。明応8年1月23日死去。59歳。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

山名政豊

没年:明応8.1.23(1499.3.4)
生年:嘉吉1(1441)
戦国時代の武将。持豊の次子,教豊の弟。応仁の乱以前に家督を継いでいた兄教豊が応仁1(1467)年9月に病死したのを受けて,家督と但馬以下の領国を継いだ。大乱中,西軍総帥であった父持豊が死ぬと,翌文明6(1474)年には東軍総帥細川政元(勝元の子)と講和し,但馬,山城の守護に任ぜられた。乱後は因幡・伯耆を平定,同12年以降は播磨,美作,備前の奪回を目指して赤松政則と死闘を展開するが果たさず,長享2(1488)年には撤兵した。

(今谷明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

やまなまさとよ【山名政豊】

?‐1499(明応8)
室町時代の武将。教豊の子。1467年(応仁1)教豊の死没後家督を継ぐ。74年(文明6)細川氏と講和を結び,応仁・文明の乱を終息させる。但馬・備後守護。一族の分国である因幡,伯耆などの反乱を鎮定し,その勢いで83年赤松政則がその支配を回復していた播磨,備前に攻め込み,占領するが,しだいに赤松氏の反撃をうけ,88年(長享2)但馬に敗走する。これによって分国内に動揺,混乱が生じ,嫡子俊豊擁立派との間で抗争が続いた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

世界大百科事典内の山名政豊の言及

【備前国】より

…応仁・文明の乱に赤松政則は東軍に属し,播磨に下国して播磨,備前,美作の旧領3ヵ国を回復して守護に任ぜられた。1484年(文明16)から88年(長享2)にわたる山名政豊の播磨,備前への侵入は旧領奪回をねらったものであったが,失敗した。 政則の死後赤松氏が衰えると,代わって三石城を本拠とする浦上氏が台頭し,浦上村宗は主君赤松義村を幽閉暗殺して実権を握り,細川高国を擁して上洛し覇権を掌握しようとしたが,義村の子政村(のちの晴政)が三好元長に内応したことにより摂津大物(だいもつ)で敗死した。…

※「山名政豊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

山名政豊の関連キーワード久我豊通意雲井上光兼大森氏頼菊池兼朝経尋戸田宗光畠山義豊宝生宗阿弥細川義春

今日のキーワード

災害派遣

天災地変その他の災害に際して,人命または財産の保護のために行なわれる自衛隊の派遣。災害出動ともいう。都道府県知事などの要請に基づいて,防衛大臣が派遣することを原則とするが,特に緊急を要する場合,要請を...

続きを読む

コトバンク for iPhone