山名政豊(読み)やまなまさとよ

改訂新版 世界大百科事典 「山名政豊」の意味・わかりやすい解説

山名政豊 (やまなまさとよ)
生没年:?-1499(明応8)

室町時代の武将。教豊の子。1467年(応仁1)教豊の死没後家督を継ぐ。74年(文明6)細川氏と講和を結び,応仁・文明の乱を終息させる。但馬・備後守護一族の分国である因幡伯耆などの反乱を鎮定し,その勢いで83年赤松政則がその支配を回復していた播磨備前に攻め込み,占領するが,しだいに赤松氏反撃をうけ,88年(長享2)但馬に敗走する。これによって分国内に動揺,混乱が生じ,嫡子俊豊擁立派との間で抗争が続いた。諡号(しごう)は宗源院殿鎮室宗護。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

関連語 岸田

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山名政豊」の解説

山名政豊 やまな-まさとよ

1441-1499 室町-戦国時代の武将。
嘉吉(かきつ)元年生まれ。山名教豊(のりとよ)の子(一説に弟)。但馬(たじま)守護。文明5年祖父持豊の死去山名氏惣領(そうりょう)となる。6年細川政元と和議をむすび,応仁(おうにん)の乱を終息にみちびく。11年但馬にかえり近隣の反乱を鎮圧,のち播磨(はりま)の領地回復をはかって赤松政則と合戦をかさねた。明応8年1月23日死去。59歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の山名政豊の言及

【備前国】より

…応仁・文明の乱に赤松政則は東軍に属し,播磨に下国して播磨,備前,美作の旧領3ヵ国を回復して守護に任ぜられた。1484年(文明16)から88年(長享2)にわたる山名政豊の播磨,備前への侵入は旧領奪回をねらったものであったが,失敗した。 政則の死後赤松氏が衰えると,代わって三石城を本拠とする浦上氏が台頭し,浦上村宗は主君赤松義村を幽閉暗殺して実権を握り,細川高国を擁して上洛し覇権を掌握しようとしたが,義村の子政村(のちの晴政)が三好元長に内応したことにより摂津大物(だいもつ)で敗死した。…

※「山名政豊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

貨幣 (名目) 賃金額を消費者物価指数でデフレートしたもので,基準時に比較した賃金の購買力を計測するために用いられる。こうしたとらえ方は,名目賃金の上昇が物価の上昇によって実質的には減価させられている...

実質賃金の用語解説を読む