東条庄
ひがしじようのしよう
千曲川を挟んで東西に広がる荘園。川東はいわゆる延徳田圃(現中野市)の辺り及び百々川の北一帯。川西は善光寺領村山・太田庄長沼(現長野市)を間に挟み西に南北に広がる。
荘名の初出は「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)二月の条「信濃国東条庄内狩田郷領主職、避賜式部大夫繁雅訖、此所被没収之処、為繁雅本領之由愁申故云々」で、同書文治二年(一一八六)三月条の乃貢未済庄々注文に「東条庄」、徳治元年(一三〇六)の昭慶門院御領目録に安楽寿院領として「信濃国東条庄繁世相伝知行不可有相違之由被仰了」(竹内文平氏蔵)とある。安楽寿院は保延三年(一一三七)鳥羽上皇の創開で、東条庄はこの院に付けられ、更に永治元年(一一四一)上皇出家の際、皇女八条院へ譲与され八条院領となった。
東条庄
とうじようのしよう
信太郡は平安時代後期に小野川を境に東条と西条に分れ、弘安大田文には「信太東二百七十丁二段大」とある。東条は鎌倉中期に立荘して東条庄となり、弘安一〇年(一二八七)の善海上納状(熊野速玉大社古文書古記録)に
<資料は省略されています>
とあり、熊野新宮と関係のある荘園になっていた。立荘の経緯などは史料がなく不明であるが、おおよその荘域は霞ヶ浦を東辺とし、小野川の左岸地帯を広く含む地域だったと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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