東水橋(読み)ひがしみずはし

日本歴史地名大系 「東水橋」の解説

東水橋
ひがしみずはし

[現在地名]富山市水橋町・水橋大町みずはしおおまちなど

北は富山湾に臨む。常願寺川に白岩しらいわ川が合流したあとの水橋川(現白岩川)河口右岸に位置し、対岸西水橋、東は水橋館みずはしたち村・水橋中みずはしなか村など。藩政期には西水橋とともに水橋浦を形成した町場で、南北に走る北陸街道を中心に町並が広がる。郷帳類には東水橋村とみえる。水橋川より加茂宮かものみや(現上市川)に至る間の沿海民のうち、漁労・漁商に従事する人々が東水橋を、農業に当たる人々が水橋館村・水橋中村を村立てしたと考えられ(富山県史)、のちに両村域へも町並が拡大していった。慶長一三年(一六〇八)に西水橋で検地があり、東水橋も同時期には存在していたと思われる(「東水橋旧記」富山市水橋郷土史料館蔵)正保郷帳では浦方・地子方と注記され、高三石余は畑で、地子方二反余とある。明暦二年(一六五六)の村御印留および寛文一〇年(一六七〇)の村御印(三箇国高物成帳)では西水橋村とともに水橋浦と確定された。小物成は水橋浦で一括されるが、享保一八年(一七三三)に東水橋として浦役一九二匁四分・鱒役三五匁八分・鮭役九三匁六分があった(「新川郡村廻帳」川合家文書)。天保一〇年(一八三九)まで浦方十村の支配下に置かれたが、同年以降東水橋村は上条組に所属。

海辺にあった東水橋は寄回り波の影響を受けることが多く、万治二年(一六五九)高波で大被害を受けた際には、水橋中村領の二五石余に三尺の地盛をして移住。延宝七年(一六七九)にも高波で一三八軒が水橋館村領五千一二歩を請地して移った(富山県史)。水橋川には北陸街道の加賀藩営定渡場が東水橋・西水橋の河口近くに設置されており、渡船は同八年まで一艘であったが、天和二年(一六八二)より二艘となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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