佐久間盛政(読み)サクマモリマサ

精選版 日本国語大辞典 「佐久間盛政」の意味・読み・例文・類語

さくま‐もりまさ【佐久間盛政】

  1. 安土桃山時代の武将。玄蕃允(げんばのじょう)と称した。尾張の人。織田信長に仕えて越前加賀征討に功を立て、のち叔父の柴田勝家に従い賤ケ岳戦いで敗れて捕えられ、京都で刑死。天文二三~天正一一年(一五五四‐八三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐久間盛政」の意味・わかりやすい解説

佐久間盛政
さくまもりまさ
(1554―1583)

戦国時代から安土(あづち)桃山時代の武将。玄蕃允(げんばのじょう)と称した。尾張(おわり)五器所(ごきそ)城(名古屋市昭和区)城主与五郎盛通(もりみち)の孫。盛次(もりつぐ)の子。母は柴田勝家(しばたかついえ)の姉。信盛の甥(おい)。勝家に仕え、鬼玄蕃の勇名をとった。1583年(天正11)近江(おうみ)柳ヶ瀬(やながせ)(滋賀県長浜(ながはま)市)の戦いに、勝家にかわって指揮し、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉が美濃(みの)大垣城を攻撃したすきに、4月16日かってに大岩(おおいわ)山を奇襲し、中川清秀(きよひで)を斬(き)ったが、翌朝秀吉の急攻と前田利家(としいえ)の撤退のため、賤ヶ岳(しずがたけ)で敗戦し逃走、捕らえられた。秀吉の降伏勧告を聞かず、京都三条河原で斬られた。

奥野高広

『高柳光寿著『賤ヶ岳之戦』(1978・春秋社)』『岩沢愿彦著『前田利家』(1966・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「佐久間盛政」の意味・わかりやすい解説

佐久間盛政 (さくまもりまさ)
生没年:1554-83(天文23-天正11)

織豊期の武将。尾張の出身で父盛次とともに織田信長に仕える。母は柴田勝家の姉。初め修理といい,のちに玄蕃允と称する。加賀一向一揆に対処するため同国の守護に任ぜられ,一揆を鎮圧する。1580年(天正8)伯父佐久間信盛の失脚に連座して蟄居(ちつきよ)したが,許されて柴田勝家に属する。83年の賤ヶ岳の戦では勝家方として活躍したが,敗戦により捕らえられて斬首された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐久間盛政」の意味・わかりやすい解説

佐久間盛政
さくまもりまさ

[生]天文23(1554).尾張
[没]天正11(1583).5.12. 京都
安土桃山時代の武将。盛次の子。初め修理,のち玄蕃允と称した。幼時より織田信長に仕え功があったが,天正8 (1580) 年伯父信盛が信長に罰せられたのち,柴田勝家に仕えて加賀尾山 (金沢) 城主となり能登石動山の衆徒征討に尽力した。同 11年盛政は勝家の先鋒となって豊臣秀吉の軍と奮戦したが,賤ヶ岳の戦いに敗れて,京都六条河原で梟首された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐久間盛政」の解説

佐久間盛政 さくま-もりまさ

1554-1583 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)23年生まれ。佐久間盛次の長男。はじめ織田信長,のち母の弟柴田勝家につかえた。賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで先鋒(せんぽう)をつとめ,中川清秀(きよひで)をたおすが,捕らえられて天正(てんしょう)11年5月12日処刑された。30歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。通称は修理亮,玄蕃允。
【格言など】世の中を廻(めぐ)りも果てぬ小車は火宅の門を出づるなりけり(辞世)

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世界大百科事典(旧版)内の佐久間盛政の言及

【賤ヶ岳の戦】より

…翌年正月勝家と結んだ滝川一益が伊勢で挙兵したので,秀吉は信雄と結んで攻撃した。勝家は雪どけを待って佐久間盛政を先発させ,北国街道の柳ヶ瀬に陣した。秀吉は伊勢から軍を返して木之本を本営とし,両軍相対し動かなかった。…

※「佐久間盛政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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