朝日日本歴史人物事典 「松前章広」の解説
松前章広
生年:安永4.7.30(1775.8.25)
松前藩9代藩主。8代藩主道広の長子。母は家臣下国季寿の養女(家臣平田忠兵衛の娘)。寛政4(1792)年幕命による父道広の致仕により急遽襲封。章広治世の前半は,寛政4年ロシアの遣日使節ラクスマン一行の根室への来航と翌年城下松前での幕吏の応接への対応,8年イギリス船プロヴィデンス号アブタ(虻田)沖渡来への対応など対外問題の処理に忙殺され,かつその対外問題で11年幕府が東蝦夷地を上知し,次いで文化4(1807)年松前・蝦夷地全域の幕領化に伴い陸奥国伊達郡梁川(福島県梁川町)9000石に移封されるなど,藩成立以来最大の非運に遭遇した。梁川にあること14年,その間幕閣に復領工作を行い,その効あって文政4(1821)年旧領に復した。復領後は蝦夷地全域を直轄し,場所請負人の運上金他の収益に依拠して擬制的蔵米知行制を実施し,また幕府に対し家格の1万石以上への昇格運動を展開し,天保2(1831)年ついに1万石格に復することができた。このとき章広は「降る雪もけふは香はし冬至梅」との句を詠んでいる。<参考文献>『松前町史』通説編1巻下,史料編1巻
(榎森進)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報