デジタル大辞泉 「ゲーテ」の意味・読み・例文・類語
ゲーテ
《原題、〈ドイツ〉Goethe》ドイツの文芸史家、グンドルフによるの評論。1916年刊。
ドイツの世界的作家。
8月28日、フランクフルト・アム・マインの富裕な家に生まれる。父はきまじめな法学のドクトルで、生涯一私人として暮らした。母は想像力に富む明るい女性。ゲーテはライプツィヒ大学で法律を学び(1765~68)、その地のロココ的風潮に親しみ、ケートヒェン・シェーンコップにより恋の喜びと悩みを知り、アナクレオン風の恋愛詩をつくった。ロココ風の戯曲『恋人のむら気』(1767)、『同罪者』(1768~69)によって早くも創作の才を示す。恋に破れ病を得て故郷に帰る。敬虔(けいけん)主義、とくにその信奉者ズザンナ・フォン・クレッテンベルク嬢の影響を受ける。この人の自伝はのちに『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』に「美しき魂の告白」として収められる。シュトラスブルク(ストラスブール)の大学に学び、法学得業士の称号を得る(1770~71)。その地でヘルダーを知り、シェークスピア、ホメロス、ピンダロス、民謡、ゴシック建築の壮大な美(シュトラスブルク大聖堂)などに触れることができた。ゼーゼンハイムの少女フリデリーケ・ブリオンへの愛によって生まれた『愛と別れ』(1770)、『五月の歌』(1771)などの詩は近代ドイツ叙情詩の開始を告げるものである。ウェツラーの帝国大審院で法律の実習についた1772年ころが、いわゆるシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤(しっぷうどとう))文学のもっとも高揚した時期である。メルク、ラバーター、F・H・ヤコービらの友情を得、『さすらい人の嵐(あらし)の歌』(1772)、『ガニュメデス』(1774ころ)、『プロメテウス』(1773)などの重要な詩がつくられる。
戯曲『鉄手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773)、小説『若きウェルテルの悩み』(1774)はゲーテの名を一躍有名にする。後者はシャルロッテ・ブフへの愛の喜びと苦しみに発するもので、恋愛小説の一典型とされる。リリー・シェーネマンと婚約するが、まもなく解消(1775)。戯曲『クラビーゴ』(1774)、『シュテラ』(1775)でも愛の情熱の問題性が追究される。『ファウスト』が1775年ころ書き始められる。この草稿は長く失われていたが、1887年に発見され、『初稿ファウスト』として刊行された。
[小栗 浩]
1775年、ゲーテはカール・アウグスト公に招かれてワイマールの宮廷に入る。公への教育的配慮は、ゲーテ自身にも節度を守り克己心を養う必要を感じさせる。その点で、彼が愛した年上のシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人は彼に大きな感化を与えた。古典主義の芸術観と人生観への修練が始まる。詩『イルメナウ』『月に寄す』『神性』『人間性の限界』、戯曲『イフィゲーニエ』(散文による初稿、1779)が書かれる。このころ自然科学の研究を始め、骨学では人間にも顎間骨(がくかんこつ)のあることを発見する(1784)。79年枢密顧問官となり、しだいに政務に追われる。その煩労とシュタイン夫人との久しい関係から逃れるためイタリアに出かけ、古典の地で芸術家としての再生に心がける(1786~88)。自然観察も深められ、「原植物」の理念が得られる。『イフィゲーニエ』(韻文による決定稿、1787)、『エグモント』(1788)、『トルクバート・タッソー』(1790)が完成する。
イタリアから帰ったゲーテはクリスティアーネ・ブルピウスを愛し、17年の内縁関係ののち1806年正規の結婚生活に入る。ローマとクリスティアーネの体験により『ローマのエレギー』(1790)が書かれる。クリスティアーネとの間に5人の子が生まれたが、長男のアウグストだけが生き残る。帰国後は政務を退き、イエナ大学の運営と宮廷劇場の監督をおもな公務とする。1792年、反フランス革命軍に加わったアウグスト公について従軍する。それはのちに『滞仏陣中記』と『マインツの攻囲』にまとめられる(1822)。イタリアでの体験は『イタリア紀行』(1816~17)として世に出る。1788年以降、自然科学の研究が熱心になされ、『植物の変態』(1790)、『光学への寄与』(1791~92)が書かれる。シラーとの交友によって詩的創造がふたたび始まる。両者が親しく交わった1794~1805年の10年間がゲーテの創作活動のもっとも活発な時期で、それはドイツ古典主義の最盛期でもある。彼はシラーとともに風刺詩をもって当時の文壇に挑戦し、多くの譚詩(たんし)を書いた。1777~85年に書かれて中断されていた『ウィルヘルム・マイスターの演劇的使命』(失われていたこの草稿の写しが1910年に発見され、『初稿マイスター』として知られるようになった)を改作して『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』(1795~96)として完成する。これはドイツ教養小説の代表作とされる。古代の形式に倣いながらフランス革命に揺れ動く現代を描いたものとして叙事詩『ヘルマンとドロテーア』(1797)、戯曲『庶出の娘』(1803)がある。叙事詩『ライネケ狐(ぎつね)』(1794)は動物寓話(ぐうわ)の形を借りて現代の風俗を風刺したものである。『ファウスト』がふたたび取り上げられ、その第1部が1808年に出版される。
[小栗 浩]
1805年シラーが死ぬ。06年ナポレオン軍がドイツに入り、神聖ローマ帝国は滅亡する。08年ゲーテはナポレオンと会見する。彼はナポレオンの偉大さを認めたから、祖国ドイツの解放戦争に積極的に参加することができない。結婚における情熱と倫理の葛藤(かっとう)を主題とする小説『親和力』(1809)が書かれる。10年『色彩論』が出、自伝『詩と真実』が書き進められる(第1~第3部は1811~14、第4部は死後1833出版)。これは自伝文学の傑作であり、18世紀ドイツの文化的状況を知るうえでも重要な記録である。14~15年に故郷のラインとマインの地方に旅したとき、マリアンネ・ウィレマーを知り、彼女との愛の交渉と、ペルシア詩人ハーフィズの影響とにより、『西東(せいとう)詩集』(1819)が生まれた。16年に妻クリスティアーネが死ぬ。23年からエッカーマンがゲーテの協力者となる。彼は晩年のゲーテの知恵を『ゲーテとの対話』(1836~48)にまとめた。これは後世のゲーテ理解に資すること甚大であった。22年マリーエンバートで18歳の少女ウルリーケ・フォン・レベッツォーを愛し、その悲劇的体験によって『マリーエンバートのエレギー』(1823)が生まれる。『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』が21年に脱稿し、補正のうえ29年に刊行される。そこでは、個人が社会に奉仕するために特殊な職能を身につけることが求められる。個の全面的展開ではなく、諦念(ていねん)の徳目が進められる。死の直前に『ファウスト』第2部が完成する(1831完成、1832刊)。32年3月22日、ゲーテはワイマールの自邸で83年の多彩な生涯を終えた。
[小栗 浩]
彼の作品はすべて「大きな告白の断片」である。その思索は文学だけでなく、自然科学、哲学などのあらゆる分野に及ぶが、いかにして己の個性を十全に展開させるかがその生涯の最大の課題であった。「わが存在のピラミッドをあとう限り高く築き上げよう」という願いが彼の一生を導く。その個性は、青年期には強烈な自己主張として現れるが、年とともに調和的な人生観に深まってゆく。小国ワイマールの宮廷で政治の責任ある地位にあった彼が、革命や戦乱を好まず、保守に傾いていたのは確かである。エンゲルスが、「ゲーテは時には反抗的な、嘲弄(ちょうろう)的な、世界を軽蔑(けいべつ)する天才だが、時には用心深い、おとなしい、了見の狭い俗物だ」といったのは間違いではない。しかし立ち後れたドイツの現実において、あれほど広く世界を見渡し、きたるべき産業社会の問題性をもいち早く察知していたのは偉とすべきである。
ゲーテにとってすべての学問も芸術の営みもいかに生きるべきかにつながる。人間は無限な宇宙のなかに投げ出されて自己の無力を痛感させられる。しかしそれは人間を絶望させはしない。有限な人間が大自然と調和的に生きうることを彼は信じていた。「思索する人間のもっとも美しい幸福は、探究しうるものを探究し尽くし、探究しえないものを静かに敬うことだ」というのが彼の根本態度である。80年を超える長い生涯で人生の暗い面を知り尽くした彼ではあるが、ペシミズムに陥ることはなかった。無力な人間が過ちを繰り返しながらもよりよい世界に向かって努力するさまを肯定的に描いたのが彼の代表作『ファウスト』である。「生きること、それはよいことだ」というのが彼の究極の信条である。
[小栗 浩]
今日のゲーテ研究では、19~20世紀初頭の、ゲーテを理想化し(ヘルマン・グリム)、あるいはゲーテを神話化する(グンドルフ)傾向に対して強く批判的であり、ゲーテやシラーを中心とするワイマール古典主義が各時代の政治的イデオロギーによって歪曲(わいきょく)され利用されていたことを指摘し、これを本来の姿に戻そうという、受容史的あるいは社会史的方法が著しくみられる。
ゲーテ研究を推し進め、またその精神を顕揚することによって一般文化に貢献するために、故郷フランクフルト・アム・マイン(ゲーテの生家が残されている)でゲーテ賞が設けられ、1927年以降、ゲオルゲ、シュバイツァー、フロイト、カロッサ、プランク、ヘッセ、トーマス・マンらに贈られている。またゲーテ研究者の協力によって、1885年ワイマールにゲーテ協会が設立され、世界のゲーテ研究の中心となっている。研究誌『ゲーテ年鑑』は1880年以降刊行され、名前と形を変えながら現代に及んでいる。わが国でも日本ゲーテ協会と関西ゲーテ協会があり、それぞれ年鑑を発行している。
[小栗 浩]
ゲーテの名が初めて日本に知られたのは明治初年であるが、本格的なゲーテ受容は森鴎外(おうがい)によるゲーテの詩、とくに『ファウスト』の翻訳(1911)に始まる。ゲーテの本格的研究書のなかでは木村謹治の『若きゲーテ研究』(1934刊)が出色であるが、そこにみられるゲーテを偶像視する傾向は、一つは作品の内在的解釈の立場から、一つは社会史的な視点から批判され、ゲーテ像の見直しが進められている。
[小栗 浩]
『登張正実他編『ゲーテ全集』15巻・別巻1(1979~92・潮出版社)』▽『『ゲーテ全集』全12巻(1960~61・人文書院)』▽『ハイネマン著、大野俊一訳『ゲーテ伝』全3冊(岩波文庫)』▽『小栗浩著『人間ゲーテ』(岩波新書)』▽『エッカーマン著、山下肇訳『ゲーテとの対話』全3冊(岩波文庫)』
ドイツの詩人,小説家,劇作家,自然科学者,美術研究家,またワイマール公国の要職にあった政治家。1749年8月28日,フランクフルト・アム・マインに生まれ,1832年3月22日,ワイマールで没した。1782年,皇帝ヨーゼフ2世により貴族(男爵)に列せられた。83年に及ぶゲーテの生涯はしばしば一つの時期概念としてゲーテ時代と呼ばれ,それは政治的,経済的,社会的,文化的に激動の時代であった。一言でいえば,それはドイツが三十年戦争(1618-48)の荒廃からようやく立ち直り,封建的貴族階級が徐々に衰退していく過程で富裕な市民階級が台頭してくるリベラルな人間中心主義の時代であった。その際,市民階級出身の有能な青年たちが拠りどころとしたのは何よりも学問的な知識・教養であり,ゲーテも伝統的な宗教教育と厳格できちょうめんな父親の家庭教育により,幼少時からラテン語,ギリシア語,ヘブライ語,フランス語,イタリア語,英語に至るまで習得し,豊かな素質と恵まれた生活環境のおかげで古今東西の人文的教養を身に付けることができた。父ヨハン・カスパルJohann Caspar G.(1710-82)は若き日にイタリアで法律学を学んだ職掌のない帝室顧問官,陽気な性質の母カタリナ・エリーザベトKatharina Elisabeth(1731-1808)はフランクフルト市長ヨハン・ウォルフガング・テクストールの長女であった。
詩人ゲーテの人間的および精神的発展は4期に大別することができる。第1期は出生からライプチヒ遊学(1765-68)と1770年のシュトラスブルク(現,ストラスブール)遊学中におけるヘルダーとの出会いをへて75年秋のワイマール移住まで,第2期はワイマール公国のカール・アウグスト公のもとにおける多忙な政務およびシュタイン夫人との恋愛の10年間,第3期はイタリア旅行(1786-88)を過渡期として帰国から盟友シラーの死(1805)まで,第4期はそれ以後のエッカーマンJohann Peter Eckermann(1792-1854)の秘書時代を含む晩年である。ドイツ文学史上,ゲーテが文学活動を開始した時期はシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤(しつぷうどとう))と呼ばれるが,《オシアン》やシェークスピアを称揚したヘルダーがその理論的指導者であったのに対し,ゲーテは抒情詩の面で〈5月の歌〉をはじめとする《ゼーゼンハイム小曲》(1770-71),戯曲の面で《ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン》(1773),小説の面で《若きウェルターの悩み》(1774)によって真に文学革命的な新生面を開いた。ゲーテの文学世界の特徴は,〈自然〉〈象徴〉〈理念〉〈活動〉〈愛〉〈魔神的なもの(デモーニッシュなもの)〉などという言葉によって要約される。彼にとって自然は青年時代から〈神性の生きた衣〉(《ファウスト》第1部)であり,森羅万象ことごとく神性の内的生命を象徴的に暗示するものであった。したがって彼の詩作は,自然の中に神性の声を聞き取り,象徴として把握された事物の隠れた意味を探り出すことにほかならなかった。この意味で彼の文学作品は深く宗教的な性格を持っていた。そのうえ,神性が永遠の理念に従って神秘的生命の営みを続けているように,人間には〈理念〉としての芸術的・道徳的理想を〈活動〉によって実現すべき使命が与えられている。しかも,その活動が個人および社会に役だつためには〈愛〉をもってなされなければならなかった。その必要は,自然や歴史の中に〈デモーニッシュ〉なもの,すなわち完全に神的でも悪魔的でもない無気味な非合理的力の作用が絶えず感じられるだけにいっそう切実であった。ゲーテの抒情詩はこうして必然的に〈象徴〉的自然詩ないし体験詩となり,彼の小説や戯曲の作中人物たちもみな,詩人と同様それぞれのしかたでデモーニッシュなものとの戦いを経験しなければならなかった。
なお文学作品および自伝的著作のほか,ゲーテには膨大な量の美術研究論文と自然科学論文がある。それらは翻訳ではごく一部しか知られていないが,思想家としてのゲーテを理解するためにほんらい最も重要なものである。とりわけ顎間骨,植物の変態,動物の原型,色彩の根源現象などに関するゲーテの思想は,デカルト,ニュートン以来の数学的,技術的,機械論的近代自然科学とは異なる汎知学的ないしヘルメス思想的自然考察の系列に属し,現代の細分化された科学技術の行きづまりとともにその基本的価値が見直されつつある。また政治家としてのゲーテについては,フランス革命(1789)や解放戦争(1813-15)に対する彼の保守的態度が批判される一方で,ワイマール前期10年間における彼の進歩的な社会改革の試みと挫折が近年とみに高く評価されるようになってきた。
ゲーテが世界文学に与えた影響は,体験詩の普及,ウェルター的モティーフの流行,《ウィルヘルム・マイスター》による教養小説的伝統の確立,ファウスト的理想主義の展開など多方面に及び,現代においては彼の全作品の根底に流れるヒューマニズムが諸民族,特に東西ドイツを精神的に融和一致させる役割をも果たしている。
日本におけるゲーテの紹介は非常に早く,1884年に《ライネケ狐》が《独逸奇書・狐の裁判》という題名で初めて英語から重訳された。明治時代前半のゲーテ受容の特徴は,作品の知識および評価がおおむねイギリス経由であったことで,特にカーライルのゲーテ論は,当時の日本人に強い影響を与えた。ゲーテの直接的受容は,1889年に《国民之友》に発表された森鷗外訳《ミニョン》をもって始まり,作家としては鷗外のほか高山樗牛,北村透谷,国木田独歩,島崎藤村,倉田百三,芥川竜之介,思想家としては内村鑑三,阿部次郎,西田幾多郎,亀井勝一郎など,おもにヒューマニズムの側面から深甚な影響を与えた。
執筆者:木村 直司
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1749~1832
ドイツの詩人。シュトラスブルク遊学時代ヘルダーの影響を受け,郷里フランクフルト・アム・マインで弁護士を開業しつつも詩作にはげみ,『若きヴェルテルの悩み』によって「疾風怒濤(しっぷうどとう)」時代を代表する作家となる。やがてヴァイマル公に招かれ政治にもかかわるが,その間自然科学,特に植物学を研究し,文学でも自由奔放な作品を排し,法則の支配する詩型を持つ作品を高く評価するようになった。イタリア旅行(1786~88年)後,シラーとともに古典主義文学を開花させる。折しもフランス革命からウィーン体制にかけての時期であり,急激な変化を好まなかったところから政治的には保守的な態度をとるが,その文学には時代相がさまざまに反映,生涯の大作『ファウスト』には自由を追究する市民精神が脈うっている。
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…ゲーテの長編小説。《修業時代Wilhelm Meisters Lehrjahre》8巻(1796)と《遍歴時代Wilhelm Meisters Wanderjahre》3巻(1829)とから成っているが,両者は内容・構成の面で著しく異なっている。…
…1802年,この説が唯物論的で宗教にとって危険とみなされウィーンを追放された。ドイツ,オランダ各地で講演をつづけ,ゲーテも05年7月ハレで連続講演を聞き興味を示している。07年パリに移り,解剖学者シュプルツハイムJohann Christian Spurzheim(1776‐1832)と連名で主著《神経系,とくに脳の解剖学と生理学》(1810‐19)を刊行した。…
… このように生理学と対置してみるとき,一般的には,形態学は巨視的な次元のもの,また記述的なものほど独立性が強く,微視的なもの,また実験的なものほど生理・生化学的現象との関係が深いといえる。 ところで〈形態学〉ということばはJ.W.vonゲーテが作ったものである。ゲーテは文学者・哲学者として名高いが,同時に多くの自然現象を研究した博物学者でもあった。…
…本書はインドの内外に伝わり,多大の影響を与えた。特に〈首のすげかえ〉の物語はゲーテ(《パリア》の〈聖譚〉)に着想を与え,またトーマス・マンはこの物語に基づいて短編小説《すげかえられた首》を書いた。【上村 勝彦】。…
…《近代ドイツ文学論》(1767),《1769年のわが旅の記》などであるが,彼の小冊子《ドイツの特性と芸術について》(1773)に載せたシェークスピア論と《オシアンと古代諸民族の歌謡について》は,この文学運動の出生証書とみなされている。ゲーテの《若きウェルターの悩み》(1774)に見られるように,理性,規則,秩序に対して,人間の情熱,根源的空想力,個性的偉大さを強調する直截で力強い感情移入と創造的天才性こそ,真の文学の基本であり,社会的偏見と宗教的国家的強制からの自由と自決権の確立が,この運動の綱領となった。 この運動の主要な文学形式は戯曲で,三一致法則を廃棄し,韻文戯曲の妥当性への懐疑から散文で書かれ,気ままな場面転換と熱情のおもむくままに無拘束で自由な表現主義的語法がその特色となっている。…
…ゲーテの晩年の詩集。1819年刊。…
…〈rapport〉はラテン語の〈affinis(親和力)〉の訳語として使われた。その後ベリマンTorbern Olof Bergman(1735‐84)がさらに一般化した表を作り,ニュートン的万有引力をも包括する体系を考えたが,ゲーテはそれに刺激されて《親和力》(1809)を書いた。 このように物質,もしくは自然物に内蔵される力という概念は,より大きな文脈において,基本的には西欧ではプラトン主義の伝統に属するものであり,自然を動的に変化・展開せしめる原動力が自然物そのものに帰属する,という考え方に基づく。…
…(2)ヨハン・ハインリヒ・ウィルヘルムJohann Heinrich Wilhelm Tischbein(1751‐1829) 前者の従弟で同じく叔父に学び,オランダでの勉強を経て1777年ベルリンで肖像画家として成功を収める。ローマ滞在中の86年にゲーテと親交を結び,その肖像を描いて〈ゲーテのティシュバイン〉の異名をとった。1790年代にはナポリのアカデミーの院長を務め,1800年以降は北ドイツで活動した。…
…《ハンブルク演劇論》は,劇評という枠を越えた実践的な理論的著作である。彼が晩年の傑作《賢者ナータン》を発表するころ,ゲーテ,レンツ,クリンガーなどの若い世代が,理性より感情の優位を主張する疾風怒濤(しつぷうどとう)(シュトゥルム・ウント・ドラング)の文学運動を開始した。劇作では,フランス古典主義演劇の形式を退けて,シェークスピアに範をとる多場面構成で,強烈な個性をもつ人物をもつ戯曲が求められた。…
…脊柱とそれに付随する筋肉系や神経系が,多くの無脊椎動物に見られるような体節的構造をもつのに対し,頭骨は一見そうした構造をもたない。このことに関して,頭蓋の一部と椎骨とのぼんやりした類似から,進化論確立に先立つ19世紀前半に動物の〈原型〉を求める立場から,L.オーケン,ゲーテ,R.オーエンらが,頭蓋は椎骨の変形によって生じたという説(頭蓋椎骨説)を立てたことがあった。この説はのちにT.H.ハクスリーにより進化論的立場から発生学的理由によって否定されたが,その後も頭蓋の前後方向の〈分節性〉を認めようとする学者が今日に至るまで少なくない。…
…正常者でもときに体験することがあり,過労や心労によって意識水準がある程度低下し,そのため自己の身体像が外界に転位されて感覚性を帯びたものと説明される。ゲーテが《詩と真実》で述べているのもそうで,〈恋人のフリーデリーケと別れた苦悩に満ちた日……私が馬に乗ってドルーゼンハイムのほうへ少し行くと,向こうの道から金糸入りの灰色の上衣を着て馬に乗ってやってくる自分の姿が見えた。この幻像は私がその時の夢のような状態から逃れるために頭をふると,すぐに消え失せた〉とある。…
…プラトンを教皇としソクラテスを使節とする善なる教会の従僕であることを誇ったP.ベルレーヌとその相手のJ.N.A.ランボー,民衆詩人W.ホイットマン,社会主義運動にひかれた詩人E.カーペンター,男色罪で2年間投獄されたO.ワイルド,S.ゲオルゲなどがとくに知られているが,彼らばかりではない。ゲーテは《ベネチア格言詩》補遺で少年愛傾向を告白し,A.ジッドは《コリドン》で同性愛を弁護したばかりか,別の機会にみずからの男色行為も述べ,《失われた時を求めて》のM.プルーストは男娼窟を経営するA.キュジアと関係していた。J.コクトーと俳優J.マレーとの関係も有名である。…
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[近・現代の人形劇]
18世紀後半から20世紀初めへかけて,多くの芸術家が人形劇を愛した。最も有名なのは,J.W.ゲーテの戯曲《ファウスト》が古い人形劇の《ドクトル・ファウスト》から生まれたことだ。ゲーテは祖母からマリオネットを贈られ,4歳のとき《ダビデと巨人ゴリアテ》を見た。…
…フランスではフリーメーソン・ロッジに〈薔薇十字の騎士〉の位階が導入され,ドイツでは1777年ベルリンにフリーメーソンから分離独立した〈黄金・薔薇十字団〉が結成され,フォルスターGeorg Forster(1754‐94)や解剖学者ゼンメリングSamuel Thomas Sömmering(1755‐1830)らが活動したといわれる。ゲーテもこの結社に関心を抱いたらしい形跡は,長編詩《秘密》の山上の修道院の創設者フマヌスの死の床の場で,修道院の扉に薔薇の絡んだ十字の印が刻されているところから察せられる。一方,18世紀の自称薔薇十字団の周辺には,カリオストロやサン・ジェルマン伯,シュレープファーJohann Georg Schröpfer(1733‐83)のような山師も出没して,いかさまめいた行状も目だった。…
…たとえば,公共建築などで中央にドームのある主屋,両脇に低い翼部を配するといった構成は,彼の手法そのままであり,〈異人館〉の開放的ベランダなども,もとは彼の手法から出ている。建築以外の分野でもパラディオの影響には無視しえないものがあり,絵画におけるN.プッサンやルーベンス,文学におけるゲーテなどは,いずれも熱心なパラディオ主義者であった。【福田 晴虔】。…
…悪魔は彼に魔術の世界を開く鍵を伝授し,数々の奇跡を実行する能力を彼に授けたのである。これに続いてまずイギリスのC.マーロー(1588)が,ドイツではレッシング(断片),ゲーテ,F.M.クリンガー(1791),N.レーナウ(1836),ハイネ(1851,バレエ台本),20世紀に入って,トーマス・マンの《ファウスト博士》(1947),バレリーの《モン・フォースト》(1946)がこのテーマを扱い,ファウスト伝説を豊富にした。ファウスト〈テーマ〉は救済型と破滅型に分かれるが,ゲーテのファウストのみが救済され,他はそれぞれの時代思潮からとられたテーマに従って一般に破滅型である。…
…市域の南西端では,ハンブルクとバーゼル,ケルンとミュンヘンを結ぶ二大高速道路(アウトバーン)が交差し,ライン・マイン空港は,ロンドン,パリに次ぐヨーロッパ第3位の発着便がある。 学術・文化面をみると,文豪ゲーテの名を冠し,近年は社会哲学者アドルノ(1903‐69)らのフランクフルト学派で著名となった総合大学(1914年創立。1982‐83年には21専攻,学生数約2万7000)とショーペンハウアー,G.フライタークなど有数のコレクションを蔵する付属図書館,第2次大戦以後ドイツ語で書かれた全世界の出版物を収集するドイツ図書館,金印勅書をはじめ貴重な史料を保存する市立文書館,イエズス会派の聖ゲオルク哲学・神学大学,音楽大学,教育大学があり,マックス・プランク協会のヨーロッパ法史,生物物理学,脳の各研究所,パウル・エーリヒ実験治療研究所,フロベニウス民族学研究所も置かれている。…
…道中で記された《1769年のわが旅日記》は以後の思想的発展の萌芽を宿す。シュトラスブルク(現,ストラスブール)滞在中(1770‐71)に若きゲーテに多大の影響を与え,シュトゥルム・ウント・ドラング運動の契機となる。71年からビュッケブルクで宮廷牧師を務め,この文学運動の綱領とされるオシアン論とシェークスピア論を73年に発表。…
… ロマン主義の時代にはいるとドイツで多数のメルヘンが書かれ,フケーの《ウンディーネ》のように,パラケルススが錬金術的表象として創作した水の精が主人公に登用される作品もあらわれた。ノバーリスは《青い花》,ホフマンは《悪魔の霊液》,ゲーテは《ファウスト》に錬金術への関心を示している。ゲーテはG.ブルーノの思想や錬金術を熱心に研究しており,その《色彩論》にも錬金術の間接的影響を認めることができる。…
…
[ドイツにおけるロマン派演劇]
演劇におけるロマン主義の時代区分は,他のジャンルの場合とはやや異なるものの,およそ1770年代から1830年代までと考えてよかろう。なぜなら1770年代にドイツに起こった疾風怒濤(しつぷうどとう)(シュトゥルム・ウント・ドラング)の運動は,他のヨーロッパ諸国のロマン主義に与えた影響から考えると,広義のロマン派と呼びうるからである(ただドイツにおいては,疾風怒濤期以後に古典主義が成立し,またさらにロマン派が生まれ,疾風怒濤の代表作家だったゲーテ,シラーらが古典主義を確立して,ロマン派と対立するというやや特殊な事情も存在する)。疾風怒濤派は,とくに劇文学において,〈三統一〉の法則を典型とする古典主義の〈法則の強制〉に反発し,啓蒙的な合理主義に対して感情の優位を主張して,シェークスピアを天才的で自由な劇作の典型として崇拝した。…
…カール・アウグスト公(在位1758‐1828)親政下(1775‐1828),勃発したフランス革命の影響もあってドイツ自由主義文化の中心となる。75年以来ゲーテはこの公国の政務を担当し,1832年ここで没した。この時代に,シラー,ヘルダー,詩人のウィーラントなどがワイマールに集まってドイツのブルジョア的な宮廷文化の華を咲かせる。…
※「ゲーテ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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