20世紀日本人名事典 「松山鎰」の解説 松山 鎰マツヤマ イツ 明治・大正期の教育者 生年嘉永4年(1851年) 没年大正6(1917)年8月7日 出生地江戸・麻布(東京都港区) 経歴幕府与力の娘として生まれる。維新後、徳川家の駿河移封に伴って藤枝に移り、結婚して一女を生むが、間もなく寡婦となる。その後、士族の娘としての教養を生かして教員生活に入り、明治6年に勤有社教員、次いで10年に静岡師範付属女学校舎監を務めた。18年に静岡県初の幼稚園が開設されると、その保母となって活躍し、しばしば東京に出張して幼児教育の研究に従事。37年東京に移住し、東洋婦人会や東洋音楽学校の創設に尽力。大正5年には常磐松高等女学校(のちのトキワ松学園)を創立した。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松山鎰」の解説 松山鎰 まつやま-いつ 1851-1917 明治-大正時代の教育者。嘉永(かえい)4年生まれ。幕府与力の娘。徳川家の移封で駿河(するが)(静岡県)藤枝にうつる。1女を生むが夫と死別。勤有舎,静岡師範付属小学校の教師となる。明治18年県初の幼稚園開設で保母となる。のち東京にうつり東洋婦人会,東洋音楽学校などの創設につくした。大正6年8月7日死去。67歳。江戸出身。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by