朝日日本歴史人物事典 「松平定敬」の解説
松平定敬
生年:弘化3.12.2(1847.1.18)
幕末維新期の桑名藩(三重県)藩主,京都所司代。通称鎮之助,晴山と号した。父は美濃国(岐阜県)高須城主松平義建。尾張(名古屋)藩主徳川慶勝,会津藩(福島県)藩主松平容保の弟。安政6(1859)年桑名藩主松平猷の養子となり家督を相続した。元治1(1864)年京都所司代に就任し,一橋慶喜,松平容保と共にいわゆる一会桑政権の一翼を担い,京都の治安維持および朝幕間の周旋に努めた。慶応2(1866)年8月から9月にかけての同政権崩壊後は兄容保と袂を分かち,終始一貫慶喜と行動を共にする。明治1(1868)年の鳥羽・伏見の戦ののち,大坂を逃れて江戸城に入り,主戦論を唱えた。のち東北を経て箱館に渡り,五稜郭で政府軍に抵抗したため,翌年津藩に永預となり,同5年1月になってようやく許された。なお会津藩士手代木直右衛門によれば,坂本竜馬暗殺犯とされる京都見廻組与頭佐々木只三郎に暗殺を指令したのは定敬だという。<参考文献>「酒井孫八郎日記」(『維新日乗纂輯』4巻)
(家近良樹)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報