朝日日本歴史人物事典 「松永長頼」の解説
松永長頼
生年:生年不詳
戦国時代の武将。大和多聞山城(奈良市)城主松永久秀の弟。通称甚介。備前守。入道して蓬雲軒宗勝と号す。天文18(1549)年6月,摂津江口の敗戦で細川晴元政権が崩壊したのに伴い,京畿方面で三好長慶の進出が目立ったが,長頼は長慶の被官として幕府領(旧禁裏領)の山科七郷を押領した。翌19年10月に長慶が将軍足利義輝と戦った際には,醍醐から迂回して近江大津,松本に進撃して集落を焼き払い,義輝を坂本へ退却させた。同20年7月の晴元軍との戦いでは,兄久秀と共に相国寺に拠る三好政勝らの軍に猛攻を加え,丹波へ敗走させた。同22年9月には丹波方面の司令官となり八上城(兵庫県篠山町)を包囲。この攻撃中に岳父の内藤国貞が晴元の攻撃で八木城に敗死すると,残兵を糾合して1日で八木城を奪回,この軍略によって一躍長慶重臣にのし上がり,丹波一国をあずけられた。以後,八木城主として国貞の遺児千勝丸を後見した。後年の久秀の台頭は,実は弟長頼の軍略と勢威に多くを負っている。その後口丹波と奥丹波を領域に収め,十余年同地域の安定を保ち,京都の儒者清原宣賢より「丹州太守」と呼ばれた。しかし永禄7(1564)年7月長慶が死し,翌年5月将軍義輝が三好三人衆によって暗殺されるにおよんで丹波支配も動揺し,同年8月丹波黒井城を包囲中,城主赤井(荻野)直正の逆襲によって戦死,松永軍は丹波氷上郡内で崩壊し,丹波は三好氏の分国を離脱した。有名なキリシタン大名内藤如安は遺子。<参考文献>今谷明『戦国三好一族』
(今谷明)
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