日本大百科全書(ニッポニカ) 「キリシタン関係主要人名」の意味・わかりやすい解説
キリシタン関係主要人名
きりしたんかんけいしゅようじんめい
天草四郎(あまくさしろう) (1623/1624―1638)
島原の乱の首将。洗礼名ジェロニモ。小西行長(ゆきなが)遺臣益田甚兵衛好次(よしつぐ)の子。1637年(寛永14)一揆(いっき)の総大将として原城に籠城(ろうじょう)したが、翌1638年落城し、四郎ら1万余の首級は晒(さらし)ものにされた。
アルメイダ Luis de Almeida (1525―1583)
ポルトガルのリスボン生まれ。商人として来日したが、私財をなげうちイエズス会に入り、大分に孤児院、病院をつくり、日本におけるカトリックの社会福祉活動の草分けとなる。五島(ごとう)、天草を中心に布教し、天草にて没す。
大村純忠(おおむらすみただ) (1533―1587)
有馬晴純(ありまはるずみ)の二男。1538年(天文7)大村純前(すみさき)の養子となり、18代領主となる。1563年(永禄6)トルレスより受洗、バルトロメオと称す。領内をほとんどキリスト教化する。1570年(元亀1)長崎港を開き、1580年(天正8)長崎と茂木(もぎ)をイエズス会に寄進する。少年使節(天正(てんしょう)遣欧使節)を派遣。
オルガンティーノ Gnecchi-Soldo Organtino (1530/1533―1609)
イタリアのカスト・ディ・バルサビア生まれ。1570年(元亀1)天草(あまくさ)に上陸。30年以上京都で活躍し、京都の南蛮寺、安土(あづち)のセミナリオを建てる。宇留岸伴天連(ウルガンバテレン)として親しまれる。長崎にて没す。
木村セバスチャン(きむらセバスチャン) Kimura Sebastião (1565/1566―1622)
平戸(ひらど)に生まれ、12歳で同宿(どうじゅく)となり、1580年(天正8)有馬(ありま)のセミナリオに入校。1601年(慶長6)最初の邦人司祭となる。1621年(元和7)大村鈴田牢(ろう)に投獄され、翌1622年長崎西坂にて殉教。福者。
コリャド Diego Collado (?―1641)
スペインのミアハダス生まれ。1619年(元和5)ドミニコ会司祭として来日し、長崎周辺で活動。1622年ローマへ赴き、在日イエズス会士訴状を提出。また『日本語文典』『羅西日辞典』などを出版。マニラ沖で溺死(できし)した。
ザビエル Francisco Xavier (1506―1552)
スペインのナバラ生まれ。イエズス会創立者の一人。1549年(天文18)初めて日本にキリスト教を伝える。鹿児島、平戸、山口、府内で布教。1551年日本を去り、翌1552年中国のサンショアン島で没す。聖人。
シドッチ Giovanni Battista Sidotti (1668―1714)
イタリアのシチリア生まれ。禁教下における最後の潜入者。1708年(宝永5)屋久島に上陸したが捕らえられ、江戸小石川切支丹(きりしたん)屋敷に幽閉さる。新井白石(あらいはくせき)は取調べを行い、『西洋紀聞』『采覧異言(さいらんいげん)』などを著す。
スピノラ Carlo Spinola (1564―1622)
イタリアのジェノバ生まれ。イエズス会士。1602年(慶長7)長崎に上陸。京都で布教したのち、長崎へ戻り、会計係を務める。数学、天文学に長じ、長崎で緯度測定を行った。1618年(元和4)より大村鈴田牢に4年間投獄され、1622年長崎西坂にて殉教。福者。
セルケイラ Luis de Cerqueira (1552―1614)
ポルトガルのアルビトル生まれ。1598年(慶長3)日本の第3代司教として来日。1599年より長崎にて司教職遂行と司祭養成に尽力した。長崎にて没す。
ソテロ Luis Sotelo (1574―1624)
スペインのセビリア生まれ。1603年(慶長8)フランシスコ会宣教師として来日。1613年伊達政宗(だてまさむね)の家臣支倉常長(はせくらつねなが)とともに使節としてスペイン、イタリアに行き、1622年(元和8)再来日した。薩摩(さつま)で捕らえられ放虎原(ほうこばる)にて殉教。福者。
高山右近(たかやまうこん) (1552?―1615)
摂津に生まれ、1564年(永禄7)受洗、霊名ジュスト。京坂地方の教会の柱石となる。1587年(天正15)秀吉の棄教の命令に従わず、知行(ちぎょう)を没収され、1614年(慶長19)家康の禁教策によってマニラに追放され、1615年同地で病死。
バプチスタ Pedro Baptista (1545―1597)
スペインのサン・エステバン生まれ。1593年(文禄2)フィリピン総督の遣日使節として来日。サン・フェリペ号事件に関連して、秀吉はバプチスタはじめ26名を長崎西坂で処刑した。日本二十六聖人の中心人物。
バリニャーノ Alessandro Valignano (1539―1606)
イタリアのパドバ生まれ。1579年(天正7)日本巡察師として来日。布教方針など重要問題を処理した。また少年使節(天正遣欧使節)を送り、東西文化の交流にも努めた。前後3回来日した。マカオにて没す。
ファビアン Fabian (1565―1621ころ)
僧籍出身の日本人。不干斎(ふかんさい)と号す。山城(やましろ)国に生まれ、1586年(天正14)イエズス会に入り、1593年(文禄2)ごろイルマンとなる。天草版『平家物語』を編纂(へんさん)し、護教書『妙貞問答』を著す。1608年(慶長13)棄教し、排耶(はいじゃ)書『破提宇子(はだいうす)』を著す。長崎にて没す。
フェレイラ Christóvão Ferreira (1580―1650)
ポルトガルのジブレイラ生まれ。1609年(慶長14)来日。1633年(寛永10)穴吊(あなつる)しの刑によって棄教。沢野忠庵(ちゅうあん)と名のり、長崎奉行(ぶぎょう)に仕え、排耶(はいじゃ)書『顕偽録(けんぎろく)』を著した。晩年には医学・天文学書を翻訳、編纂(へんさん)した。
プチジャン Bernardo Tadée Petitjean (1829―1884)
フランス生まれ。1863年(文久3)パリ外国宣教会司祭として来日。1865年(慶応1)大浦天主堂で浦上(うらかみ)の潜伏キリシタンを発見した。翌1866年司教となり、神学校を開設し、カトリックの再建に大きな足跡を残す。長崎にて没す。
フロイス Luis Frois (1532―1597)
ポルトガルのリスボン生まれ。1563年(永禄6)来日。優れた文才を有し、初期日本布教史たる『日本史』をはじめ、『日欧文化比較』および多数の日本通信を残している。長崎にて没す。
モラレス Francisco Morales (1567―1622)
スペインのマドリード生まれ。1602年(慶長7)ドミニコ会の管区長代理として来日。1619年(元和5)大村鈴田牢に投獄され、長崎西坂にて殉教。福者。
ロドリゲス João Rodriguez (1561ころ―1634)
ポルトガルのセルナンセレ生まれ。1577年(天正5)ころ来日、司祭となる。日本語に堪能(たんのう)で、家康との通訳として活躍。1610年(慶長15)マカオに追放され、その地で没す。『日本大文典』を著す。
[宮崎賢太郎 2018年2月16日]