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室町幕府13代将軍。号光源院。12代将軍義晴の子として京都で出生。細川氏綱の反乱により1546年(天文15)12月義晴が近江に亡命中に,六角定頼の加冠で将軍に任官した。49年以降,畿内に覇を唱えた三好長慶のためしばしば京都を追われ,細川晴元も無力化したので,52年長慶と講和し入京した。しかし53年にはまた長慶と対立することとなり,京都防衛の拠点である霊山城が陥落して義輝軍は長慶に大敗し,5年余も近江朽木谷に亡命を余儀なくされている。58年(永禄1)長慶と和睦なって還京を果たしたが,将軍の勢力範囲は京都周辺に限られ,丹波,摂津,大和,河内,和泉はすべて三好・松永氏の版図と化した。しかし彼自身は三好氏のかいらい化を潔しとせず,しばしば三好・松永両氏に反抗の気配をみせたため,65年5月,ついに三好義継,松永久秀らの忌むところとなり,暗殺された。剣術に秀でていたとの伝説は有名。
執筆者:今谷 明
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室町幕府第13代将軍。天文(てんぶん)5年3月10日生まれ。足利義晴(よしはる)の子。初名義藤(よしふじ)。父が近江(おうみ)(滋賀県)逃亡中に坂本で将軍に就位。その治世は細川晴元(はるもと)の勢威衰え、家宰三好長慶(みよしながよし)が台頭してしばしば京都を追われた。1553~1558年の間は近江朽木(くつき)に幽居、この間に秀隣院(しゅうりんいん)庭園(国指定名勝)を造営し、俗説では塚原卜伝(ぼくでん)に剣術を学んだといわれるが未詳。還京後は単なる長慶の傀儡(かいらい)に甘んぜず、幕府の首長として三好政権に抵抗の姿勢を続けたため、松永久秀(ひさひで)らに警戒され、長慶死去の翌永禄(えいろく)8年5月19日暗殺された。
[今谷 明]
1536.3.10~65.5.19
室町幕府の13代将軍(1546.12.20~65.5.19)。12代義晴の長子。母は近衛尚通(ひさみち)の女。初名義藤(よしふじ)。法名光源院融山道円。従四位下参議。細川晴元らに擁立され,11歳で将軍職を譲られ,当初は父義晴の補佐をうける。1547年(天文16)細川氏綱と結んだため,晴元から京都を追われる。翌年講和したが,49年晴元が三好長慶に敗れると近江国坂本へのがれ,義晴没後朽木(くつき)に移った。52年に一時帰京するが,まもなく朽木に戻る。58年(永禄元)六角義賢の尽力で長慶と和して京都に帰還。交戦中の戦国大名間に和議を勧めるなど将軍権威の回復に努めた。しかし長慶没後に実権を握った松永久秀や三好三人衆に居館を襲撃され,奮戦ののち自害。
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