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足利義輝 あしかが よしてる

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美術人名辞典の解説

足利義輝

室町幕府十三代将軍。十二代義晴の長男、母は関白近衛尚通の娘。幼名は菊幢丸、初名は義藤。天文15年将軍となるが、諸将対立のあおりを食い、近江に逃れる。六角義賢の仲介で帰洛して以後、交戦中の戦国大名間に和義を勧めるなど将軍権威の回復に努めた。永禄8年(1565)歿、30才。

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デジタル大辞泉の解説

あしかが‐よしてる【足利義輝】

[1536~1565]室町幕府第13代将軍。在職1546~1565。義晴の子。三好・松永氏らの勢力が強く、将軍職は有名無実であった。松永久秀に攻められて敗死。

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百科事典マイペディアの解説

足利義輝【あしかがよしてる】

室町幕府13代将軍。12代将軍義晴の子。1546年近江六角氏の擁立で将軍就任。しかし三好長慶(みよしながよし)としばしば対立し,1553年から5年間近江朽木谷(くつきだに)へ亡命。
→関連項目朝倉義景曲直瀬道三三好三人衆

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

足利義輝 あしかが-よしてる

1536-1565 室町幕府13代将軍。在職1547*-65。
天文(てんぶん)5年3月10日生まれ。足利義晴(よしはる)の子。天文15年将軍となる。細川晴元,三好長慶(みよし-ながよし)との対立抗争のためしばしば京都をのがれた。永禄(えいろく)元年長慶と和睦(わぼく)し,織田信長ら諸大名の力を利用して将軍の権威回復につとめたが,松永久秀(ひさひで)らに攻められ,8年5月19日自害した。30歳。京都出身。幼名は菊幢丸。初名は義藤。法号は光源院。
【格言など】五月雨(さみだれ)は露か涙か時鳥(ほととぎす)我が名をあげよ雲の上まで(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

足利義輝

没年:永禄8.5.19(1565.6.17)
生年:天文5.3.10(1536.3.31)
室町幕府第13代将軍。父は義晴,母は近衛尚通の娘。幼名菊幢丸。天文15(1546)年12月,父義晴が三好長慶に追われて近江坂本に滞在中,同地で元服,将軍に任官した。初名義藤。その治政の大半は,摂津守護代,次いで天下人となった長慶の台頭に押され,彼との対立と和睦に明け暮れた。同19年東山中尾に築城して京都をうかがい,翌々年1月入京するも同22年8月霊山の戦で長慶に敗れ,永禄1(1558)年末に講和入京するまで近江朽木に幽居を余儀なくされる。幽居中の居館秀隣院は名庭で知られる。鉄砲技術の導入に意を用い,自ら撃剣を塚原卜伝に学んだと伝えられる。また長慶打倒に暗殺団を組織して長慶の岳父遊佐長教を殺害するなど,将軍権威の回復に執念を燃やした。帰京翌年には上杉景虎,斎藤義竜,織田信長らを在京させ長慶を牽制,三好政権と小康を保つが同7年5月長慶没後は三人衆と対立,翌年5月,京都武衛陣の仮御所で松永久秀らに包囲され自刃した。<参考文献>今谷明『戦国三好一族』

(今谷明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

あしかがよしてる【足利義輝】

1536‐65(天文5‐永禄8)
室町幕府13代将軍。号光源院。12代将軍義晴の子として京都で出生。細川氏綱の反乱により1546年(天文15)12月義晴が近江に亡命中に,六角定頼の加冠で将軍に任官した。49年以降,畿内に覇を唱えた三好長慶のためしばしば京都を追われ,細川晴元も無力化したので,52年長慶と講和し入京した。しかし53年にはまた長慶と対立することとなり,京都防衛の拠点である霊山城が陥落して義輝軍は長慶に大敗し,5年余も近江朽木谷に亡命を余儀なくされている。

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大辞林 第三版の解説

あしかがよしてる【足利義輝】

1536~1565) 室町幕府一三代将軍(在職1546~1565)。義晴の子。三好・松永氏らの勢力が強く,将軍職が形骸化けいがいかしたことに反発したが,逆に松永久秀らに暗殺された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

足利義輝
あしかがよしてる

[生]天文5(1536).3.10. 京都
[没]永禄8(1565).5.19. 京都
室町幕府 13代将軍 (在職 1546~65) 。義晴の子。母は近衛尚通の娘。幼名は菊童。初名は義藤。天文 23 (1554) 年2月 12日義輝と改名。同 15年正五位下左馬頭となり,日ならずして父義晴の譲りを受けて征夷大将軍となり,従四位下に進み,翌年2月 17日参議左中将。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

足利義輝
あしかがよしてる
(1536―1565)

室町幕府第13代将軍。天文(てんぶん)5年3月10日生まれ。足利義晴(よしはる)の子。初名義藤(よしふじ)。父が近江(おうみ)(滋賀県)逃亡中に坂本で将軍に就位。その治世は細川晴元(はるもと)の勢威衰え、家宰三好長慶(みよしながよし)が台頭してしばしば京都を追われた。1553~1558年の間は近江朽木(くつき)に幽居、この間に秀隣院(しゅうりんいん)庭園(国指定名勝)を造営し、俗説では塚原卜伝(ぼくでん)に剣術を学んだといわれるが未詳。還京後は単なる長慶の傀儡(かいらい)に甘んぜず、幕府の首長として三好政権に抵抗の姿勢を続けたため、松永久秀(ひさひで)らに警戒され、長慶死去の翌永禄(えいろく)8年5月19日暗殺された。[今谷 明]

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