デジタル大辞泉
「足利義輝」の意味・読み・例文・類語
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あしかが‐よしてる【足利義輝】
- 室町幕府第一三代将軍。義晴の子。初名義藤。天文一五年(一五四六)将軍となる。永祿八年(一五六五)五月一九日、松永久秀らに暗殺された。天文五~永祿八年(一五三六‐六五)
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足利義輝
あしかがよしてる
[生]天文5(1536).3.10. 京都
[没]永禄8(1565).5.19. 京都
室町幕府 13代将軍 (在職 1546~65) 。義晴の子。母は近衛尚通の娘。幼名は菊童。初名は義藤。天文 23 (1554) 年2月 12日義輝と改名。同 15年正五位下左馬頭となり,日ならずして父義晴の譲りを受けて征夷大将軍となり,従四位下に進み,翌年2月 17日参議左中将。この年,細川晴元と畠山政国の争いに,畠山にくみしたため,細川勢に洛北の北白川城を攻められ,父とともに近江坂本へ逃れた。のち晴元と和し,同 17年6月帰洛した。しかし翌 18年晴元が家臣三好長慶と摂津に戦って敗れたため,義晴父子は晴元とともに再び坂本へ移った。同 19年5月4日義晴が病没したので,義輝が家督を継いだ。同 20年三好氏の近江進攻により,坂本からさらに北の山中の高島郡朽木に移ったが,同 21年には三好氏との和約ができ,晴元は堅田から出奔し,義輝は京都に帰った。翌 22年7月長慶の京都侵入により,山城杉坂から近江竜華に逃れ,京都は長慶の制圧するところとなり,義輝の動静は不明となる。永禄1 (58) 年朽木から竜華に出てきた義輝,晴元主従は,近江の六角義賢の助けを得て坂本に陣を移し,西進して三好軍と京都攻防戦を重ねたが,11月和議が成立して入洛した。永禄7 (64) 年7月長慶が没すると,翌年その後嗣義継と,専権をふるっていた義継の臣松永久秀に京亭を急襲され,義輝は自殺した。
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足利義輝 (あしかがよしてる)
生没年:1536-65(天文5-永禄8)
室町幕府13代将軍。号光源院。12代将軍義晴の子として京都で出生。細川氏綱の反乱により1546年(天文15)12月義晴が近江に亡命中に,六角定頼の加冠で将軍に任官した。49年以降,畿内に覇を唱えた三好長慶のためしばしば京都を追われ,細川晴元も無力化したので,52年長慶と講和し入京した。しかし53年にはまた長慶と対立することとなり,京都防衛の拠点である霊山城が陥落して義輝軍は長慶に大敗し,5年余も近江朽木谷に亡命を余儀なくされている。58年(永禄1)長慶と和睦なって還京を果たしたが,将軍の勢力範囲は京都周辺に限られ,丹波,摂津,大和,河内,和泉はすべて三好・松永氏の版図と化した。しかし彼自身は三好氏のかいらい化を潔しとせず,しばしば三好・松永両氏に反抗の気配をみせたため,65年5月,ついに三好義継,松永久秀らの忌むところとなり,暗殺された。剣術に秀でていたとの伝説は有名。
執筆者:今谷 明
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足利義輝
あしかがよしてる
(1536―1565)
室町幕府第13代将軍。天文(てんぶん)5年3月10日生まれ。足利義晴(よしはる)の子。初名義藤(よしふじ)。父が近江(おうみ)(滋賀県)逃亡中に坂本で将軍に就位。その治世は細川晴元(はるもと)の勢威衰え、家宰三好長慶(みよしながよし)が台頭してしばしば京都を追われた。1553~1558年の間は近江朽木(くつき)に幽居、この間に秀隣院(しゅうりんいん)庭園(国指定名勝)を造営し、俗説では塚原卜伝(ぼくでん)に剣術を学んだといわれるが未詳。還京後は単なる長慶の傀儡(かいらい)に甘んぜず、幕府の首長として三好政権に抵抗の姿勢を続けたため、松永久秀(ひさひで)らに警戒され、長慶死去の翌永禄(えいろく)8年5月19日暗殺された。
[今谷 明]
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足利義輝
没年:永禄8.5.19(1565.6.17)
生年:天文5.3.10(1536.3.31)
室町幕府第13代将軍。父は義晴,母は近衛尚通の娘。幼名菊幢丸。天文15(1546)年12月,父義晴が三好長慶に追われて近江坂本に滞在中,同地で元服,将軍に任官した。初名義藤。その治政の大半は,摂津守護代,次いで天下人となった長慶の台頭に押され,彼との対立と和睦に明け暮れた。同19年東山中尾に築城して京都をうかがい,翌々年1月入京するも同22年8月霊山の戦で長慶に敗れ,永禄1(1558)年末に講和入京するまで近江朽木に幽居を余儀なくされる。幽居中の居館秀隣院は名庭で知られる。鉄砲技術の導入に意を用い,自ら撃剣を塚原卜伝に学んだと伝えられる。また長慶打倒に暗殺団を組織して長慶の岳父遊佐長教を殺害するなど,将軍権威の回復に執念を燃やした。帰京翌年には上杉景虎,斎藤義竜,織田信長らを在京させ長慶を牽制,三好政権と小康を保つが同7年5月長慶没後は三人衆と対立,翌年5月,京都武衛陣の仮御所で松永久秀らに包囲され自刃した。<参考文献>今谷明『戦国三好一族』
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足利義輝
あしかがよしてる
1536.3.10~65.5.19
室町幕府の13代将軍(1546.12.20~65.5.19)。12代義晴の長子。母は近衛尚通(ひさみち)の女。初名義藤(よしふじ)。法名光源院融山道円。従四位下参議。細川晴元らに擁立され,11歳で将軍職を譲られ,当初は父義晴の補佐をうける。1547年(天文16)細川氏綱と結んだため,晴元から京都を追われる。翌年講和したが,49年晴元が三好長慶に敗れると近江国坂本へのがれ,義晴没後朽木(くつき)に移った。52年に一時帰京するが,まもなく朽木に戻る。58年(永禄元)六角義賢の尽力で長慶と和して京都に帰還。交戦中の戦国大名間に和議を勧めるなど将軍権威の回復に努めた。しかし長慶没後に実権を握った松永久秀や三好三人衆に居館を襲撃され,奮戦ののち自害。
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足利義輝 あしかが-よしてる
1536-1565 室町幕府13代将軍。在職1547*-65。
天文(てんぶん)5年3月10日生まれ。足利義晴(よしはる)の子。天文15年将軍となる。細川晴元,三好長慶(みよし-ながよし)との対立抗争のためしばしば京都をのがれた。永禄(えいろく)元年長慶と和睦(わぼく)し,織田信長ら諸大名の力を利用して将軍の権威回復につとめたが,松永久秀(ひさひで)らに攻められ,8年5月19日自害した。30歳。京都出身。幼名は菊幢丸。初名は義藤。法号は光源院。
【格言など】五月雨(さみだれ)は露か涙か時鳥(ほととぎす)我が名をあげよ雲の上まで(辞世)
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足利義輝
あしかがよしてる
1536〜65
室町幕府13代将軍(在職1546〜65)
義晴の子。1546年将軍となったが,管領細川氏の内紛,三好・松永氏らの勢力の増大に押され実権はなく,彼らとの争いにたびたび近江にのがれた。'64年政権の奪還を企てたために翌年松永久秀らに攻め殺された。
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足利義輝 (あしかがよしてる)
生年月日:1536年3月10日
戦国時代の室町幕府第13代の将軍
1565年没
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