出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
内藤如安 ないとう-じょあん
?-1626 織豊-江戸時代前期の武将,キリシタン。
永禄(えいろく)8年受洗。小西行長につかえ,小西如庵とも名のる。文禄(ぶんろく)・慶長の役に講和使節として明(みん)(中国)との交渉にあたる。関ケ原の戦い後,加藤清正,前田利長に臣従。徳川家康の禁教令で慶長19年高山右近らとともに呂宋(ルソン)(フィリピン)に流され,寛永3年マニラで死去。名は忠俊。号は徳庵。洗礼名はジョアン(如安,如庵)。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
内藤如安【ないとうじょあん】
安土桃山時代の武将。本名忠俊,飛騨守を称す。如安は洗礼名ジョアンに由来する。もと丹波(たんば)八木城主。足利義昭に味方して織田信長に追放された。1564年キリシタンとなり小西行長のもとに属し,文禄・慶長の役では北京で明と講和交渉を行った。1614年高山右近らとともに国外追放を受け,マニラで没した。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ないとうじょあん【内藤如安】
?‐1626(寛永3)
近世初期のキリシタン武士。飛驒守,徳安とも称する。如安は洗礼名ジョアンJoãoに由来する。丹波国八木の城主であったが,1587年(天正15)伴天連追放令のさい信仰を守って所領を捨て,キリシタン大名小西行長に仕えた。文禄・慶長の役では行長とともに渡鮮し,明との講和交渉にあたった。関ヶ原の戦後,一時,加藤清正の下にあったが,高山右近の斡旋で前田利長に仕えた。1614年(慶長19)キリシタン禁教令によって,右近らとともにマニラに追放され同地で没した。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報