朝日日本歴史人物事典 「柳川調興」の解説
柳川調興
生年:慶長8(1603)
江戸前期の対馬藩宗家の家老。豊前守。初め玄蕃頭。号は式山,梅軒,素庵。生家の勢力基盤は,祖父調信の代に築かれる。江戸に生まれ,11歳で家督を相続。徳川家康や秀忠の小姓になるなど幕臣のごとき経歴を重ね,これがやがて藩主宗義成との対立を招く。正妻である義成の妹を離縁,宗家の国書改竄を幕府に直訴した。寛永12(1635)年,将軍徳川家光による親裁の結果,調興の敗訴が決まり津軽へ流罪となる。老中土井利勝の配慮もあって,流罪地へ家臣7名を伴うことを許され,城近くに広大な屋敷を賜る。文武両面に秀でた才能は,藩主津軽信政に敬慕され,流人というより賓客待遇の余生を送った。世に「素庵の詠吟」といわれる和歌の秀作50首を残す。なお晩年には,改竄事件で死罪となった家人松尾七右衛門の実名,智保を名乗り,死してそれを墓碑に刻ませたように,家臣への厚情が知られる。<参考文献>田代和生『書き替えられた国書』
(田代和生)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報