栃内村(読み)とちないむら

日本歴史地名大系 「栃内村」の解説

栃内村
とちないむら

[現在地名]遠野市土渕町栃内つちぶちちようとちない

東は貞任さだとう(八八四・二メートル)を隔てて橋野はしの(現釜石市)、北は小烏瀬こがらせ川上流の立丸たちまる峠で小国おぐに(現下閉伊郡川井村)に通じる。山口やまぐち村の北に位置し、西は駒木こまぎ村。ほぼ南流する小烏瀬川や、東方界木さかいぎ峠辺りから西流して同川に合流する和野わの川沿いなどに集落がある。大槌おおつち街道が東西に通り、火石ひいしで北方川井かわい(現川井村)に向かう小国道が分岐する。文治五年(一一八九)藤原氏滅亡後、源頼朝は阿曾沼広綱に遠野一二郷を与えたが(阿曾沼興廃記)、このうちの上六郷に当地も含まれたと伝える。


栃内村
とちないむら

[現在地名]花巻市栃内

轟木とどろき村・笹間ささま村の西方平坦地にあり、北は太田おおた村。慶長一五年(一六一〇)の南部利直知行宛行状(花巻松川文書)によると、当村六七石余など合せて一〇〇石が羽黒堂彦逸に与えられている。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高二四三石余とあり、七ヵ年平均の免は二ツ一分二厘九毛。元禄十郡郷帳では笹間村に入るとある。「邦内郷村志」では蔵分七八七石余・給分一〇九石余、家数七三、馬一〇〇。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数七八、うち枝村の立野たての二三高谷地たかやち一八・月夜つきよ二〇・片子沢かたこさわ一七。

太田村境に是信坊碑がある。康永三年(一三四四)一一月一日の覚如書上(蓮如上人御法語)に「是信御坊奥州和賀郡一柏」とみえ、「内史略」によれば、親鸞の弟子是信坊は生来石を好み、良石を多く産する陸奥国を布教の地と定めて下向し当地に庵を結んだという。


栃内村
とちないむら

[現在地名]紫波町栃内

北上川左岸の平坦地から東方の山間丘陵地を占める。南と東は東長岡ひがしながおか村、西は北上川を隔て土橋つちはし(現矢巾町)、北は江柄えがら村。遠野街道が通る。寛永一八年(一六四一)の高二七一石余で、全村栃内与兵衛の知行地となっている(「検地高目録写」県立図書館蔵)正保国絵図に村名がみえ、高一二二石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高一七石余、七ヵ年平均の免四ツ六分六厘一毛。元禄十郡郷帳による〆高は、田方二四三石余・畑方四五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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