森越村
もりこしむら
[現在地名]名川町森越
八戸城下(現八戸市)の南西、馬淵川の中流右岸の河岸段丘に位置する。集落の東と西端を小流が北流して馬淵川に注ぐ。東は埖渡村(現福地村)、北・西は馬淵川を隔てて斗賀村・剣吉村、南は下名久井村に接する。永禄一〇年(一五六七)頃と推定される一〇月一六日付南部晴政書状(遠野南部文書)に「四戸殿人馬別ニ被立 馬見吉森之腰ヘ被致打立 かせき被申候」、同じく一〇月一六日付の東政勝書状案(同文書)に「昨日も四戸殿人馬別ニ被立馬候而 森の腰しほりをとらせ候而」とあり、三戸南部氏一族の内紛をめぐり攻防があった際、当地は人馬の派遣の要路とされた。
森越村
もりこしむら
[現在地名]岡崎市森越町
矢作川が湾曲する右岸沿いの低い自然堤防上に立地。北は北野村、南から西は橋目村、東は矢作川左岸の日名村・大門村である。かつては北隣の北野村の境より矢作川の支流があり、承応二年(一六五三)に北野用水の注水口となる。この付近一帯は、矢作川の東西交通の渡河地点で、「長瀬八幡宮社記」「信介見聞雑記」などには、織田勢に追撃された家康がこの地点より大樹寺へ渡ったと記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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