椋橋郷
くらはしごう
「和名抄」高山寺本は「椋橋」(訓を欠く)、刊本は「高橋」とするが、他に所見する例からみて「高」は誤りと思われる。のちには「倉橋」と記した。
古代椋橋郷に関してはほかにみえないが、天平勝宝元年(七四九)一二月一九日付東大寺奴婢帳(正倉院文書)に「奴津麻呂年弐拾
印左口辟下黒子加佐郡戸主外正八位上椋橋部乙理之奴」とあり、ここにみえる椋橋部は郷名を負うものであろう。
郷域は確定しがたいが、寿永三年(一一八四)四月一六日付平辰清所領寄進状案(東寺百合文書)に大内郷の四至として「北限余部堺方神山并倉橋郷堺」とあるので、大内郷に南接した地であったことがわかる。また、椋橋郷内には建長三年(一二五一)八月三日付将軍藤原頼嗣家政所下文(朽木文書)にみえる倉橋庄が立荘されているが、同文書に「倉橋庄内与保呂村」とみえ、与保呂村は現舞鶴市字与保呂と考えられるので、椋橋郷は与保呂を含んだ与保呂谷一帯はもちろん、その北、祖母谷をも含んでいたと考えられる。
椋橋郷
くらはしごう
多武峯寺領の四郷の一(→高家郷)。護国院御神殿造営銭日記(談山神社文書)の永正一六年(一五一九)の「諸郷反銭納分四郷ハ五十文配、寄郷ハ百文配」に「廿貫六百廿六文上 椋橋郷分納 寺納田八反 二百六十四文不被出 預申作分 侘事候而免 又西ハネ一反 清澄院領荒不上」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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