大内郷
おおうちごう
「和名抄」高山寺本・刊本とも訓を欠くが、伊与国和気郡にある大内郷を刊本は「於保宇知」と訓ずるので今これに従う。
郷域は寿永三年(一一八四)四月一六日付平辰清所領寄進状案(東寺百合文書)に四至が記されてそのおおよそを知ることができる。すなわち、
<資料は省略されています>
とあり、田辺郷の東、余部(戸)郷・倉橋(椋橋)郷に北接していたことが知れる。「丹後国何鹿郡」は丹波国何鹿郡の誤りで、南と東は丹波(何鹿郡)に接していた。
大内郷
おおうちごう
「和名抄」高山寺本は「太内」、東急本は「大内」とみえ、ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「於保知」と読む。天喜四年(一〇五六)二月二三日の散位藤原実遠所領譲状案(東南院文書)に「大内郷」とあり、郷内に「友生村 四至東限喰代西山 南限山 西限久米河橋 北限国分寺」「安佐小田村 四至東限立岡 南限岩前 西限大便淵 北限河」「依那具村」「手白髪村」および猪田郷「北限大内堺」がみえる。友生・安佐小田両村の四至によれば、当時の郷域には現上野市上友生・中友生・下友生・四十九町・守田町・大内・依那具辺りが含まれていたとみられる。
大内郷
おおうちごう
「和名抄」高山寺本・流布本に「大内」と記し、流布本にのみ「於保宇知」と訓ずる。東は高縄山塊、西は吉原・高尾の二郷、南は姫原郷、北は堀江湾に接する。中世期には、河野氏の家臣大内氏の支配下にあり、その拠点の大内城(塩森城ともいった)には大内大蔵少輔・同式部少輔・同九郎左衛門らがいたと伝えられる(予陽郡郷俚諺集)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 