日本歴史地名大系 「検見川村」の解説 検見川村けみがわむら 千葉県:千葉市花見川区検見川村[現在地名]花見川区検見川町・花園町(はなぞのちよう)・浪花町(なにわちよう)・朝日(あさひ)ヶ丘町(おかちよう)・花園一―五丁目・南花園(みなみはなぞの)一―二丁目南西方を江戸湾に臨み、北西の馬加(まくわり)村、南東の稲毛(いなげ)村(現稲毛区)と結ぶ房総往還が通る。馬加村境を花見川が流れ、河口には湊が置かれ、古くから交通の要所であった。「東路の津登」によると、連歌師宗長は永正六年(一五〇九)一〇月中旬に下総国浜(はま)の村(現中央区)本行(ほんぎよう)寺に逗留し、同月二二日帰途につき、「はまの村をたちて、けみ川といふ所に浦風あまり烈しかりしかば、一宿して」と旅宿をとっている。天文七年(一五三八)一〇月の国府台合戦では小弓公方足利義明・義純父子、義明の弟基頼らが敗死するが、「国府台戦記」には「れんせいと申女房」が「我きみの御しかはねを見まいらせんと」して、小弓(おゆみ)を旅立って結城(ゆうき)浦・稲毛のまつ山を経て戦場に向かい、その途次「心ほそくもけみ河の、川瀬の千鳥友よふも、君に逢かとおとろきて、仏神にたのみをかけて船橋のしのひのひに通過、あしに任て行程に」と記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by