榛原郡
はいばらぐん
面積:八二五・九二平方キロ(境界未定)
御前崎町・相良町・榛原町・吉田町・金谷町・川根町・中川根町・本川根町
遠江国の東端に位置し、近世の郡域は南北に細長く、北は信濃国、東は駿河国志太郡、南は駿河湾および遠州灘、西は北から周知・佐野・城東の三郡に接する。現在の榛原郡および志太郡大井川町にあたり、一部島田市の西部にかかる。大井川がほぼ郡の東境で国境でもあった。
〔古代〕
「和名抄」東急本に「波伊波良」の訓があり、古代史料では「蓁原郡」と表記されることが多い。古代の郡域は現在の島田市西部、榛原町・大井川町・吉田町・相良町・御前崎町にあたり、牧之原台地とその東の大井川西岸域、さらには駿河湾沿岸と同湾に注ぐ中小河川に沿って広がる。古代の大井川は現島田市阪本の谷口付近から東に向かい、現在の栃山川の流路を通って駿河湾に注いでいたと推定されており(大井川町史)、郡域も一部は現在の大井川東岸に及んでいたと考えられる。郡域には現在の大井川右岸から御前崎町にかけての丘陵地帯に古墳が分布し、島田市初倉地区には前方後円墳がある。「続日本紀」天平五年(七三三)九月二三日条に蓁原郡とみえ、同郡の君子部真塩女は三子の男子を産み、大税二〇〇束と乳母一人を与えられたという。「和名抄」高山寺本には賀治・蓁原・大江・細江・船木・勝田・相良の七郷がみえ、東急本はほかに駅家と神戸の二郷を記し、賀治は質治と記している。賀治郷・質治郷は質侶郷の誤記と考えられている。
郡内には佐野郡から佐夜中山(現掛川市)を越える古代東海道が東西に走り、東海道を移動する官人のために初倉駅(現島田市)に一〇疋の駅馬、蓁原郡に五疋の伝馬が設定されていた(「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条)。その東端の大井川の渡河点には渡船が設置されており、承和二年(八三五)大井川の渡船が二艘から四艘に増やされている(同年六月二九日「太政官符」類聚三代格)。また元慶四年(八八〇)以降、水害を被った榛原郡の百姓口分田の代りに不堪佃田を班給することを国司がしきりに申請しており(「三代実録」仁和元年四月一七日条)、たびたび大井川の水害に見舞われたようである。郡名を負う氏族としては、「日本書紀」応神二年三月壬子条や「古事記」応神天皇段に、応神の皇子大山守の後裔として榛原君がみえる。城飼郡の豪族であった土方家に伝わる系譜をもとに明治時代にまとめられた土方家系図(土方文書)には大山守の曾孫加米古王について「榛原公祖、家居榛原里」との注記がみえ、榛原氏は「和名抄」にみえる蓁原郷付近を本拠とした在地豪族として、早い段階からヤマト政権との政治的関係をもっていたと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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