大井川(読み)オオイガワ

デジタル大辞泉 「大井川」の意味・読み・例文・類語

おおい‐がわ〔おほゐがは〕【大井川】

静岡県中部を南流する川。赤石山脈に源を発し、駿河湾に注ぐ。長さ168キロ。江戸時代東海道の要所として架橋・渡船が禁止されたため、人足や輦台れんだいで渡河した。

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精選版 日本国語大辞典 「大井川」の意味・読み・例文・類語

おおい‐がわおほゐがは【大井川・大堰川】

  1. [ 一 ] 桂川のうち京都府亀岡盆地から上流をいう。秦氏の祖先が大堰を設け、灌漑用水を起こしたため呼ばれた。丹波山地の大悲山付近を源とする。亀岡盆地から下流は保津川、京都市の渡月橋付近からは桂川と呼ばれ、淀川に合流する。葛野(かどの)川。
    1. [初出の実例]「けふ人をこふる心は大井がはながるる水におとらざりけり〈よみ人しらず〉」(出典:古今和歌集(905‐914)恋一・一一〇六)
  2. [ 二 ] ( 大井川 ) 静岡県中央部、間ノ岳(あいのだけ)南麓を源とし、南流して駿河湾に注ぐ川。江戸時代は東海道第一の難所、要所で、橋や渡船は禁止され、人足や輦台(れんだい)による渡河方法がとられた。全長一六〇キロメートル。

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日本歴史地名大系 「大井川」の解説

大井川
おおいがわ

源流が県内にある河川のうちで最大の一級河川。主流の延長距離一八五キロ。県の最北端のあいノ岳(三一八九・三メートル)から発して南アルプスを南流して静岡市井川いかわに達し、そこから南西に流れを変えて本川根ほんかわね町に入り、接岨せつそ峡を経て千頭せんずに至る。その間に支流の寸又すまた川と合流する。以後、金谷かなや町までの南流区間で広い河原を伴うようになる。ここまでの流路はしばしば曲流(蛇行)し、ショートカットした曲流跡も多い。金谷から先は平均勾配一千分の四の扇状地をなし、多数の乱流跡がみられる。

大井川のルーツは約一〇〇万年前までたどることができる。小笠おがさ山を構成する小笠層群(一〇〇万年から四〇万年前)の大部分は礫層からなる。この礫層の特徴(運搬方向・礫の岩質・形態)から大井川が南西に流路をとり、現袋井市・浅羽あさば町にまで達したことが判明した。それに引続く坂部原さかべばら礫層(約二〇万年前以降)牧之原まきのはら礫層(約一三万年前)も同様の特徴を示し、この時から大井川は現牧之原から御前おまえ崎に向かうように流路を変えたものと思われる。金谷から上流五〇キロ余にわたって、谷沿いの山腹に大井川の名残を示す礫層と河原(段丘)の跡が多数検出され、これらは六段の高さに整理できる。最高の段は現川床との比高が一八〇メートル、牧之原台地の北方延長に相当し、本川根町奥泉おくいずみ辺りまでたどることができる。以後、大井川の流路はほぼ現位置に落着き、地盤の隆起と浸食とによって川床がしだいに下がって現在に至った。下流部の平野は扇状地のまま海に接するので、海岸線が円弧形をなす。ただし大井川町吉田よしだ町の境の現河口付近は土砂の運搬堆積のためいくらか突出する。焼津市田尻たじり付近の海岸線も同様で、かつて現島田市から東に直進した主流があったことを示している。地質ボーリングの資料で平野の地下を調べてみると、約六千余年前の縄文海進最盛期の頃、海は背後の山の麓や谷の中まで入り込んでいたことが知られる。とくに瀬戸せと川・葉梨はなし川・朝比奈あさひな川では奥深い入江ができた。一方、大井川は現主流沿いに多量の砂礫を押出し、海の進入を阻む勢いであった。縄文海進最盛期以後は海面がほぼ現位置に静止した。

「日本書紀」仁徳六二年五月条に「大きなる樹有りて、大井河より流れて、河曲に停れり」とみえ、仁徳天皇が大井河の河曲に大木が掛かったという遠江国司の報告を聞き、倭直吾子籠を遣わして船を造らせ、難波なにわ(現大阪市)に運んで御用船としたという。


大井川
おおいがわ

本部もとぶ半島の北海岸に注ぐ流域面積二三平方キロ、河川延長約一一キロの二級河川。方音ではプンジャー、あるいはウプンジャーという。源流は本部半島中央部やや南寄りに山頂を置く八重やえ岳の北東斜面。上流域・中流域の地質は中生代の本部層(石灰岩・砂岩・頁岩・チャートなどで、古くは与那嶺層ともよんだ)、下流部は第四紀の琉球石灰岩や国頭礫層などから構成される。地形はおおむね源流付近(本部町)が山地、上流・中流域(本部町・今帰仁村)が大起伏丘陵、下流域(今帰仁村)石灰岩台地と砂礫台地である。河口部はラッパ状に開いた典型的なエスチュアリ(三角江)で広い干潟をなし、背後の石灰岩台地の縁は石灰岩堤とよばれる堤防状の高まりが認められる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大井川」の意味・わかりやすい解説

大井川(静岡県の川)
おおいがわ

静岡県中央部を南流する川。一級河川。赤石(あかいし)山脈北部の間ノ岳(あいのたけ)(3190メートル)に源流をもち、駿河湾(するがわん)に注ぐ河川で、延長168キロメートル、流域面積1280平方キロメートル。島田市から下流には扇状地を形成するが、流域の大部分は山間地を流れ、峡谷と曲流に特色をもつ。上流部の二軒小屋から伝付峠(でんつくとうげ)を越えて富士川水系へ、三伏峠(さんぷくとうげ)を経て天竜川水系への峠路がある。上流域の旧井川村は接岨峡(せっそきょう)で閉じられたため大日峠を越えて静岡市と結び付き、現在は静岡市に編入されている。支流の寸又川(すまたがわ)も穿入蛇行(せんにゅうだこう)の峡谷をもち、上流のシラビソ、トウヒ、モミなどの原生林は原生自然環境保全地域に指定されている。年降水量も上流部は3000ミリメートルを超えるため森林資源に恵まれ、その開発のため東俣(ひがしまた)線林道が建設されている。また、水資源も豊富で井川ダム、畑薙ダム(はたなぎだむ)がつくられ電源地帯となり、大井川水系の15発電所の最大出力は約68万キロワットとなった。また、接岨峡近くに建設が進められていた長島ダムは、調査開始から30年を経た2002年(平成14)に竣工(しゅんこう)した。開発に伴う鉄道の敷設もみられ、1931年(昭和6)には千頭(せんず)まで大井川鉄道が開設され、1954年(昭和29)にはさらに井川まで河川に沿って軌道が延びた。かつての運材は筏流し(いかだながし)であり、谷口の島田市は集材や林産加工を中心に発展した。中流の川根(かわね)地方は曲流と河岸段丘の地形に特色をもち、鵜山七曲り(うやまななまがり)はその典型である。下流の扇状地は築堤前には洪水と氾濫(はんらん)が繰り返され、水害に対処した舟型屋敷や千貫(せんがん)堤などの堤防が旧河道とともに残り、水神や川除(かわよけ)地蔵の信仰もみられる。東海道の川越えは徒渉であり、島田宿の川会所(かわかいしょ)(島田宿大井川川越遺跡)は国指定史跡として整備されている。

[北川光雄]

大井川の渡し

大井川を渡る東西交通は、古くから徒渉のための渡船や橋の発達はみられず、江戸初期まで「自分越(ご)し」が原則であった。とくに江戸時代には「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれ、東海道屈指の荒れ川のほかに、関所川でもある難所であった。幕府は防衛政策上、架橋も渡船も禁じた。1696年(元禄9)島田代官野田三郎左衛門のとき、徒渉制度が確立し、川庄屋(かわしょうや)、川会所が設けられた。川越(かわごし)は島田、金谷宿の両岸に配された川越人足によって行われ、肩車と輦台(れんだい)越し(渡し)があった。賃金は水深によって決まり、常水は2尺5寸(約75センチメートル)で、それから1尺(約30センチメートル)までの増水には馬だけを歩ませ、2尺(約60センチメートル)増となれば人を止め、2尺以上増水して4尺5寸(135センチメートル)の水かさになれば川留(かわどめ)となった。しかし、宿助郷や地域村民の不便は大きく、上流部のたらい舟による往復は黙認されていたといわれる。

[北川光雄]

『『大井川――その歴史と開発』(1961・中部電力)』『野本寛一著『大井川――その風土と文化』(1979・静岡新聞社)』



大井川(静岡県の旧町名)
おおいがわ

静岡県中南部、志太郡(しだぐん)にあった旧町名(大井川町(ちょう))。現在は焼津(やいづ)市の南部を占める一地区。大井川下流左岸に位置し、東側は駿河(するが)湾に面する。旧大井川町は1955年(昭和30)吉永(よしなが)、静浜(しずはま)、相川の3か村が合併して町制施行。2008年(平成20)焼津市に編入。国道150号が通じる。大井川の扇状地上にあり、集落の多くは江戸時代以降の開発による。典型的な散村の形態がみられ、洪水に対処するために川の上流部に舳先(へさき)を向けた型の舟型屋敷はこの地方独特のもの。東部に航空自衛隊静浜基地があり、パイロットを養成。南部は伏流水を利用した養鰻業(ようまんぎょう)が近年まで盛んであったが、現在は工場誘致が積極的に進められている。また、米作を中心に、トマト、イチゴ、ナシを栽培。サクラエビ、シラス漁業も営まれる。河口左岸に大井川港が築港され、地方商工港の役割を果たしている。「藤守の田遊び(ふじもりのたあそび)」(3月17日)は国指定重要無形民俗文化財

[川崎文昭]

『『大井川町史』全3巻(1984~1992・大井川町)』


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改訂新版 世界大百科事典 「大井川」の意味・わかりやすい解説

大井川 (おおいがわ)

静岡・山梨県境の赤石山脈北東部,間(あい)ノ岳(3189m)の南斜面に源を発し,静岡市葵区井川の下流からは駿河・遠江の国境をなしつつ南流し,大井川平野の南西端で駿河湾に注ぐ川。静岡県内に終始する河川としては最も規模が大きく,特に幹川流路延長160kmは日本の河川の中でも上位だが,反面,全流域面積1280km2は長さに比べて著しく狭く,日本でも屈指の急流である。おもな支流には上流から寸又(すまた)川,笹間川,伊久美川,大代川などがあるが,大きな支流は少ない。この川の源・上流は,3000m級の高峰からなる赤石・白根の両連峰間にあって,東俣,西俣,赤石沢などからの水を集めつつ深い谷をうがって南流する。そこから下流には昭和30年代にあいついで完成した畑薙(はたなぎ)第一,同第二,井川などのダム群が連続する。これら巨大ダム群の人工美は,井川ダムの直下に続く接阻(せつそ)峡,寸又川の寸又峡の壮絶な峡谷美などとともに奥大井県立自然公園に,また雄大な山岳美を誇る赤石山脈の稜線部は南アルプス国立公園にそれぞれ指定されている。井川湖畔の井川は,接阻峡の存在によって,かつては下流との交通を遮断された陸の孤島であったが,これらの電源開発によって千頭(せんず)との間にダム工事用の軌道(現,大井川鉄道井川線)が1954年に通じ,また静岡市側からも井川林道が開通して,一躍奥大井観光と南アルプス登山の拠点となった。千頭の北で最大の支流寸又川を合わせた大井川は,川根地方を南流するが,その間河道沿いには数段におよぶ河岸段丘を発達させ,それらの面上には小集落と名産の川根茶の茶畑が広がっている。またこの川には先の接阻峡,寸又峡をはじめとして,本流の田代~徳山間,塩郷~笹間渡(ささまど)間(鵜山七曲(うやまななまがり))などに著しい穿入(せんにゆう)曲流区間があって,景勝の地として知られる。島田~金谷間のやや北で山地を離れた大井川は,南と西を牧ノ原台地に限られて,扇状地性の大井川平野を東方に向けて発達させている。この牧ノ原台地は,旧大井川のはんらん原がその後に隆起してできた洪積台地で,面上には明治以降に開かれた大茶園が広がっている。大井川流域では年間3000mm前後という多量の降水と地形の急こう配を利用して電源開発が進んでおり,中部電力の大井川水系9発電所など水系全体では最大出力で約60万kWの発電を行っている。またこの川の水は,国・県営事業として施行された大井川用水にも利用され,左右両岸の志太(しだ)・榛原(はいばら)・中遠地区の水田地帯に送られており,さらに河口近くの吉田町川尻一帯では豊富な地下水が養鰻に利用されている。
執筆者:

〈箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川〉と俗謡にうたわれているが,駿河・遠江の境を流れる大井川は東海道の難所とされた。江戸時代には架橋されず,渡河は川越(かわごし)人足によって輦台(れんだい)や肩車で渡河せねばならなかった。草創期は川の浅瀬を自分で越したが,江戸初期に島田宿代官の監督下に置かれ,川越人足により渡し場から渡河することになった。川越人足は,島田宿で1745年(延享2)に326人,金谷宿で1843年(天保14)350人常置されている。水深2尺5寸以上になると川留(かわどめ)となり,旅行者は島田・金谷両宿に逗留し川明けを待った。そのため両宿は繁忙を極めたが,旅行者は一ヵ所に何日も逗留するので難儀であった。明治維新後,渡し船となったが,1882年架橋され渡し場は廃止された。
執筆者:


大井川(旧町) (おおいがわ)

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百科事典マイペディア 「大井川」の意味・わかりやすい解説

大井川【おおいがわ】

赤石山脈の白根山の南に発し,静岡県中部を南流して駿河湾に注ぐ川。長さ168km,流域面積1280km2。日本屈指の急流で,上流は深い峡谷を刻んで曲流。川根本町千頭(せんず)付近で寸又(すまた)川と合流,島田市付近から扇状地を形成する。上流に畑薙(はたなぎ)ダム,井川ダム,奥泉ダムなどが建設され,各所に人造湖が出現。平安期より渡船4艘が置かれ,中世には《海道記》などに記されている。江戸時代,東海道の要衝として幕府が橋や渡船を禁じたため,旅行者は島田〜金谷の間を川越人足の肩や,輦台(れんだい)に乗って川を渡った(川越(かわごし))。
→関連項目赤石岳大井川[町]金谷[町]川止川根[町]静岡[県]静岡[市]島田[市]寸又峡中川根[町]農鳥岳藤枝[市]本川根[町]牧ノ原焼津[市]吉田[町]輦台

大井川[町]【おおいがわ】

静岡県中部,志太(しだ)郡の旧町。駿河湾に面し,大井川河口の左岸扇状地を占め,米,野菜,イチゴ,花卉(かき)を産し,サクラエビ,シラスなどの漁業も行う。港湾背後地の開発が進んでいる。航空自衛隊静浜飛行場がある。2008年11月焼津市へ編入。24.54km2。2万2992人(2005)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大井川」の意味・わかりやすい解説

大井川
おおいがわ

静岡県中部を流れる川。全長 160km。赤石山脈の間ノ岳 (あいのたけ) に発し,静岡市井川地区下流からは駿河と遠江の境を南下して駿河湾に注ぐ。上流域では山間地に深い峡谷を刻み,ここに畑薙第1ダム,第2ダム,井川ダムがある。ここを過ぎると川根で,再び接阻峡の深い谷に入り,最大の支流の寸又川と合流する。寸又峡には南アルプスの登山基地の寸又峡温泉がある。中流域の川根地方は河岸段丘が多く,林業や「川根茶」で知られる良質の茶の特産地。下流域の島田と金谷は平地に出る谷口に位置し,江戸時代,東海道の難所の一つ,大井川越徒渉の宿場として繁栄した。大井川下流の扇状地にある集落は散村形態として有名。流域には中部電力の発電所が点在する。河口に近い吉田はウナギの養殖の中心地。上流は奥大井県立自然公園に属する。

大井川
おおいがわ

静岡県中部,焼津市南部の旧町域。大井川下流の扇状地に位置する。1955年吉永村,相川村,静浜村の 3村が合体して町制。2008年焼津市に編入。水田が多く,集落は散村形態を示している。河口付近では豊富な流水,地下水を利用してウナギ養殖が行なわれるほか,サクラエビの水揚げも盛ん。河口にある大井川港付近には工業団地が立地。国の重要無形民俗文化財である藤守の田遊びを伝える。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大井川」の解説

大井川
おおいがわ

駿河・遠江 (とおとうみ) の国境(現静岡県)を流れる川
江戸時代,幕府は軍事的見地から架橋・渡船を禁じたため,川越人足の肩や輦台 (れんだい) に乗って渡河。135㎝以上の増水による川留め(最長記録28日)は旅人を困らせ,東海道随一の難所であった。そのため川の両岸に島田・金谷の宿場町が発達し,島田には代官所が設けられた。初めて架橋されたのは1882(明治15)年である。

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世界大百科事典(旧版)内の大井川の言及

【大堰川】より

…大堰そのものの位置は不明であるが,渡月橋のすぐ上流あたりと思われる。平安時代に平安京近郊として遊覧の地となった大井川はこの付近で貴賤の人々が船遊びなどに興じた。いま車折(くるまざき)神社の祭礼として行われる三船祭は,そのさまを再現したものである。…

※「大井川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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