槻河内・板谷河内(読み)つきのかわち・いたやのかわち

日本歴史地名大系 「槻河内・板谷河内」の解説

槻河内・板谷河内
つきのかわち・いたやのかわち

[現在地名]北郷町北河内

寛永四年(一六二七)に表面化し、延宝三年(一六七五)に幕府評定所の裁決が下るまで約半世紀にわたって繰広げられた飫肥藩鹿児島藩との藩境争論の論地の一つ。槻之河内・板谷之河内などとも記し、近世の北河内きたがわち村の西部にあたる。板谷河内は鰐塚わにつか(一一一八・八メートル)の南東麓、広渡ひろと川最上流部の流域、槻河内は鰐塚山地やなぎ(柳ヶ岳とも、九五二・三メートル)の東麓、広渡川支流槻之河内川の流域を占める。両所ともに山間僻地ではあったが、鬱蒼たる深林が豊かな森林資源となっていた。飫肥・鹿児島両藩の藩境争論は鰐塚山地の南部、現在の日南市と北諸県きたもろかた三股みまた町の境界に位置するうしの峠(牛之峠とも、標高七九一メートル)一帯が初発地点で、同所の名をとって一般に牛の峠論山といわれている(日南市の→牛の峠。しかし実際の争論で最後まで争点となったのは槻河内・板谷河内の帰属についてであった。争論において重要な役割を果した飫肥藩歩行格の松浦勘左衛門(源太左衛門を称していたが、のち藩主伊東祐実の命により勘左衛門と改名)家に伝えられた文書(松浦家文書)によると槻河内・板谷河内は合せて長さ四里、横一里半、周り八里余に及び、松・楠・樫・櫟・杉などの天然良材が密生、狩猟など生産の拠点でもあった。松浦家文書ほかの史料では槻河内・板谷河内を合せて「槻・板谷両河内」「北河内論山」「(鰐)塚山論山」、鹿児島藩側では「梶山論山」「飫肥論山」などと記す事例も散見する。なお飫肥藩領内を流れて海に入る四つの河内について、飫肥を軸として南を南郷河内、西を西河内にしがわち(酒谷村のうち上酒谷村にあたる。現日南市)、北を北河内、田野たの(現田野町)の流れを田野川内と称していたという。

〔藩境争論の始まり〕

寛永元年、飫肥藩領北河内村の者が板谷河内「かきの浦」で槻(欅)の巨木を伐り出しているのを鹿児島藩領庄内の梶山しようないのかじやま(現三股町、梶山村とも)の者が見つけ、同所は鹿児島藩領であるといって木材を留置きにし、山中に放置しておくという事件が起こった(「梶山論山覚書」都城島津家文書)。次いで同四年、飫肥藩二代藩主伊東祐慶が牛の峠の南東、西河内の猪八重いのはえ(赤石河内のうち)で船板を伐り出させていたところ、梶山の者たちが、飫肥藩領民が鹿児島藩領内を掠めたとして番人を付け船板を差留にした。梶山側の主張は飫肥・庄内(梶山郷を含む都城盆地一帯の総称)の境界は牛の峠を南東に越えた谷底、一之瀬いちのせの三角石(現存する)を基点に槻・板谷両河内に至る流域の谷限であるというものであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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