日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇田川榕菴」の意味・わかりやすい解説
宇田川榕菴
うだがわようあん
(1798―1846)
江戸後期の津山藩医で蘭学者(らんがくしゃ)。大垣藩医で蘭学者だった江沢養樹(ようじゅ)(旧姓中島)(1774―1838)を父に、大垣藩医江沢養寿の娘易(字(あざな)は安子)を母に、寛政(かんせい)10年3月9日(または16日)江戸に生まれる。1811年(文化8)津山藩医で蘭学者の宇田川榛斎(しんさい)の養嗣子(ようしし)となり、1817年津山藩医となる。オランダ語を義父や馬場佐十郎、吉雄俊蔵(よしおしゅんぞう)らに学び、1826年(文政9)蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)の訳員となり、ショメル百科事典を和訳し『厚生新編(こうせいしんぺん)』を書くほか、多数の蘭書を訳述した。1816年に早くもコーヒーの産地、効用を説いた『哥非乙(こうひい)説』を書き、1819年イギリスのエプソム塩(硫酸マグネシウム)が下剤としてよいことを述べた『諳厄利斯瀉利塩考(えんげりすしゃりえんこう)』(稿)を書く。後者は蘭、漢、和の記述を比較、さらに実物にあたって考証し、エプソム塩は漢人のいう凝水石であり海水からも簡単に得られることを述べるなど、その内容は実用を目ざし、かつ実証的である。この傾向は全訳述に及んでいる。1821年5月12日付『バタビア新聞』に掲載されたコレラの症状と治療法についてのボイエルの論文Beschrijving der chorea Morbusを訳し、「古列亜没爾爸斯(これあもるぶす)説」(稿)を書いた。
義父に協力して日本初の体系的西洋薬剤の書『榛斎先生訳述・榕菴校補、新訂増補和蘭薬鏡(おらんだやくきょう)』18巻(1828~1830)、『遠西医方名物考(えんせいいほうめいぶつこう)』36巻(1822~1825)を出版。前者ではおもに和漢で既知の薬品、後者では鉱物、動物系薬品や和漢に知られていない薬品について、性質、形状、主治、製法、用法などを述べ、『遠西医方名物考補遺』9巻(1834)も出版した。
これより前、1817年にショメル百科事典を読んで、西洋には実用的な本草(ほんぞう)学とは別に、植物自体の構造や生理を探求する植物学(植学といった)があることを知るが、薬剤書を訳述するうちに動物学(動学といった)、植物学、化学(舎密(せいみ)といった)の必要性を悟り、日本初の植物学書『西説菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』(経文形式、1822年)、そして本格的植物学書『植学啓原』3巻付図1巻(1835)を出版した。また、『厚生新編(虫属)』を書き(1827)日本に初めて昆虫学を紹介し、『動学啓原』も書いた(1835)が出版には至らなかった。化学については、ラボアジエによって革新されたばかりの本(蘭訳書)を読み、『舎密加(せいみか)第一書』(1828年稿)、『ラホイシール動酸舎密加』(1830年稿)、『瓦斯(がす)舎密加』2巻稿(成稿年不詳)、『山酸舎密加』1巻稿(同)、『中性塩舎密加』2巻(同)、『舎密機械図彙(ずい)』一張図1巻(同)など、多数の訳述を行った。実験も行い、試薬一覧の『舎密試薬編』(1832年稿)、ガルバーニ電池作成のレポート『瓦爾華尼越列機的児(がるはにえれきてる)造作記』(1831年稿)や『熱海(あたみ)試説』(1828年稿)をはじめ、全国各地の温泉を分析したレポートを書いた。『遠西医方名物考補遺』巻7~9は「元素編」巻1~3としてラボアジエの元素のことが書かれているが、そのなかに、元素、酸素、窒素、水素、炭素、分析、気化、酸化、酸、アルカリ、中和、塩、酸化物など今日も使われている化学の基礎的用語がみられる。ついで、日本最初の体系的化学の大著『舎密開宗(せいみかいそう)』21巻の執筆、出版(1837~1847)に進んだ。
そのほか、西洋史の年表『西洋紀年稿』(1838年稿)、オランダの歴史、地誌を述べた『和蘭志略』16巻(1844~1845年稿)、『海上砲術全書』(稿)、各国の105個以上の硬貨の拓本帖『西洋硬貨鑑』、戯作『酔紅楓』(稿)、同じく『知古伝(しるこでん)』(稿)、語学書など、多数の稿や絵画を残した。
1822年(文政5)薩摩(さつま)藩医で日本最初の西洋産科医足立長雋(あだちちょうしゅん)の娘世璵を妻に迎えた。実子はなく、飯沼慾斎(よくさい)の子興斎を養嗣子に迎え、弘化(こうか)3年6月22日没。戒名は榕樹院緑舫逍遙居士といい、墓は東京都府中市の多磨(たま)墓地に2基あり、その一つに世璵(清遊院蓮光浄観大姉)と眠る。
[道家達將]
『田中実校注、林良重他訳『舎密開宗』(1975・講談社)』▽『道家達將著『日本の化学の夜明け』(1979・岩波書店)』