改訂新版 世界大百科事典 「市民劇」の意味・わかりやすい解説
市民劇 (しみんげき)
フランス語drame bourgeois(ドラム・ブルジョア)の訳語で,18世紀半ばの市民階級の台頭とともにヨーロッパ(フランス中心)におこった一群の演劇をさす。とくに〈町民劇〉とも訳される。
18世紀前半までは,多くの戯曲はギリシア・ローマ古典劇の方法にのっとって作られており,悲劇の主人公は,神話的人物,王侯,歴史的な大人物に限られ,普通の市民の登場する演劇はすべて喜劇であった。アリストテレスの《詩学》では,悲劇の主人公が偉大な人物でなければならないのは,破滅の際の落下の距離が大きい方が,悲劇的な効果も大きいからと説明している。そしてまたこのような崇高な劇はすべて韻文によって語られねばならなかった。18世紀になって第三階級である市民階級が勃興し,みずからの力を自覚すると,喜劇以外の劇のなかでも,市民が主人公になることを望むようになった。1731年にイギリスのG.リロの書いた《ロンドンの商人》は,女性に惑わされて罪を犯し,処刑される市民を主人公にした,最初の市民悲劇であり,そのなかには商人の階級的自覚を示すせりふも認められる。18世紀はまた感傷趣味の強い時代で,人間の悪徳を嘲笑する喜劇よりも,人間の不幸に同情して涙することが良い趣味だと考えられ,劇のジャンルを峻別することを好むフランスでは,市民生活を扱い,同情を催すような哀しい内容をもつが,悲劇的結果だけは避けてハッピー・エンドとする戯曲が登場した。これがいわゆる催涙喜劇(お涙頂戴喜劇)comédie larmoyanteである。デトゥーシュDestouches(1680-1754)やラ・ショッセNivelle de la Chaussée(1691-1754)などがその代表的な劇作家であった。たとえばラ・ショッセの《メラニードMélanide》(1741)には,喜劇的要素はまったくなく,道徳的な教訓臭が非常に強い。概して18世紀の啓蒙的な合理精神からいえば,劇場も道徳教育に役立つことが望ましいのであり,市民劇にはそのような教訓臭も強いのであった。
市民劇drame bourgeoisという言葉を初めて意識的に用いその理論づけを行ったのは,フランスのD.ディドロである。1758年に《一家の父》という喜劇を発表した彼はそれに添えて〈劇芸術について〉という論文を発表し,人間の欠陥を対象とする滑稽な喜劇のほかに,人間の美徳と義務を対象にする〈真面目な喜劇comédie sérieuse〉があり,また,悲劇にも普通人の家庭的不幸を対象とする悲劇があると考えた。従来の古典的な分け方からいうと喜劇でも悲劇でもないこの中間のジャンルが,ディドロによれば〈正劇drame〉もしくは市民劇であり,それは散文で書かれるべきだと主張した。しかし有名なスデーヌMichel-Jean Sedaine(1719-79)の作品なども含めて,フランスの市民劇では悲劇的な破局はつねに避けられており,妥協的な幸福の結末をもたない本当の市民悲劇は,ドイツで完成した。
ドイツではまずフランスの催涙喜劇の影響で,感傷劇Rührstückとよばれるジャンルが非常に流行した。イギリスでも18世紀には風習喜劇が衰えて,道徳的な感傷喜劇sentimental comedyなるものが主流になっていたが,ディドロとこのイギリス市民劇の影響を受けたG.E.レッシングは1755年に最初の市民悲劇《ミス・サラ・サンプソン》を,続いて《エミリア・ガロッティ》を発表した。これはいわば市民劇の頂点をなす作品であるが,レッシングは,アリストテレスの悲劇論を援用しつつ,恐怖と同情の念は,偉大な主人公よりむしろ観客に身近な市民を主人公にしたほうが起きやすいのではないかと考え,また登場人物の性格にも美点と欠点を混じえて,人物を黒白に描き分けることを避けた。たとえばエミリアは,純潔な娘であるが,自分のなかに誘惑に抗しきれぬ弱さがあることを知って,父に自分を殺すことを懇願するし,サラを誘惑したメルフォントは,良心の呵責(かしやく)に苦しむのである。その性質からいって市民劇は,様式的な古典悲劇にも,類型的な古典喜劇にもなかった写実的な演技様式を発展させることになった。また社会的にみると,市民劇ではしばしば〈身分違いの恋愛〉がテーマになっていることは興味深い。当時の固定した身分関係からいえば破局に終わるはずの恋愛も,トリックを使うことによりハッピー・エンドに終わらせることが可能(市民の娘が実は貴族の落胤(らくいん)であったことが判明すれば,幸福な結婚が可能になる)であったが,しかし現実を直視するならば,このような関係はF.シラーの《たくらみと恋》(1783)のカップルのように,悲惨な破局を迎えるはずであった。
演劇を崇高な世界との触れ合いと考えた後期のゲーテやシラーは,日常世界を扱った写実劇に拒否的な態度をとっているが,それは現実に市民劇が,娯楽本位の演劇として徐々に受け入れられていったことを示している。19世紀に隆盛をきわめる商業演劇で観客に喜ばれたのは,メロドラマ的に味付けされた写実的な市民劇にほかならなかった。同時期のウェルメード・プレーといわれる作品も市民階級を扱ったものが多いが,これはブルジョア演劇というべきであろう。19世紀末に,第四階級を扱ったプロレタリア演劇が登場することによって,第三階級の劇である市民劇は,その歴史的意味を終えたといえるであろう。
執筆者:岩淵 達治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報