橘浦(読み)たちばなうら

日本歴史地名大系 「橘浦」の解説

橘浦
たちばなうら

[現在地名]阿南市橘町

内原うちわら村・桑野くわの村の南に位置する。福井ふくい川河口に立地し、橘湾には小勝こかつ島・たか島や弁天べんてん島などがある。北部は人口の密集する漁村地域で、南部は農村地帯を形成する。村内には里としてくぐい青木あおき土井崎どいさきがある(阿波志)。中世から湊として栄え、江戸時代には川口番所が置かれていた。

〔中世〕

文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」に橘とみえ、当地を船籍とする船舶が同年八月から一一月にかけて奈良東大寺領の摂津兵庫北関に合計三回入港している。積載品目・数量は八月一一日入港分は榑一六〇石、九月二〇日分は榑一二〇石、一一月一五日分は榑一五〇石で、その積載合計は榑四三〇石となる。また同帳記載の橘船の船頭欄に「宍咋形部四郎枝舟歟」「海部介兵衛舟」と注記され、橘船の一部は宍咋ししくい(現宍喰町)海部かいふ(現海部町)の船主の船で、両地の船主の海運活動が当地に及んでいたことが理解される。なお橘は南北朝期から室町時代前期の史料を伝える海正八幡神社文書にみえる補陀ふだ(現土成町)桑野保に含まれていたと考えられるが、中世における湊の正確な位置については定かでない。天文一六年(一五四七)東条出羽尉光秀(桑野城主東条関之兵衛の叔父)が岩浅三郎四郎ほか六名の配下を伴って、桑野城から当地の久保尾(現久保)に移り開発したと伝える。

〔近世〕

天正一八年(一五九〇)に最初の検地が行われ、反別一八町一反余・三三石余が打出された(橘浦村史)。慶長二年(一五九七)の分限帳に中村藤兵衛知行分として那東なとう郡橘二六〇石とみえる。


橘浦
たちばなのうら

古代にみえる浦名。「続日本紀」宝亀九年(七七八)一〇月二二日条に「松浦郡橘浦」とみえ、この日第一四次遣唐使船の第三船が当浦に帰着している。この遣唐使は同六年に佐伯今毛人を大使として編成されたが、実際には病気のため副使の小野石根が大使の代行として、同八年六月二四日に出航したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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