武儀郡(読み)むぎぐん

日本歴史地名大系 「武儀郡」の解説

武儀郡
むぎぐん

面積:三六七・六三平方キロ
武芸川むげがわ町・洞戸ほらど村・板取いたどり村・武儀むぎ町・上之保かみのほ

県中央部に位置し、昭和二九年(一九五四)の市制施行によって当郡から分離した美濃市を中心に、北西に延びる武芸川町洞戸村板取村の三町村、北東に延びる武儀町上之保村の二町村に分断される。西部の三町村は北は福井県大野郡和泉いずみ村、東は郡上ぐじよう大和やまと町・八幡はちまん町・美並みなみ村・美濃市、南は関市・岐阜市、西は山県やまがた高富たかとみ町・美山みやま町、本巣もとす根尾ねお村に、東部の二町村は北東は益田ました金山かなやま町、東は加茂郡七宗ひちそう町、南は美濃加茂市・関市、西は美濃市、北西は美並村・八幡町に接する。美濃市東部を長良川が南流し、郡内を流れる支流として西より板取川・武儀川が、東より津保つぼ川が合流する。郡南部に平地がみられるが、東部・西部は全体に山がちで、北西部の県境山岳地帯は標高一四〇〇メートル級の山々が連なる。最高峰は平家へいけ(一四四一・五メートル)

郡名の初見は「続日本紀」養老元年(七一七)九月二二日条にみえる「方県、務義二郡」とされ、務義は「ムゲ」と訓じたと考えられる。八世紀前半のものとされる平城宮跡出土木簡にみえる「牟儀猪養」は牟儀君猪養のこととされ、武藝むげ郡の郡領であった身毛君氏出身の兵衛と推測される。「和名抄」には武藝郡とある。このように古くは務義・牟儀・武藝などと記されたが、「延喜式」兵部省駅伝馬条に武義駅とみえ、中世には武儀庄が郡内に存在し、近世に入って武儀郡の用字に定着する。こうした変遷により、義・儀の文字に引かれて「ムギ」と訓じられるようになったのであろう。当時の郡域は、現郡域・美濃市および関市北部、美山町・七宗町・金山町・加茂郡白川しらかわ町の一部に及んでいた。

〔原始〕

津保川流域の関市赤土坂あかつちざかの先土器時代の遺跡からはナイフ形石器が出土し、チャートで作られた小型の茂呂タイプのものが多い。武芸川町に縄文前期の八幡はちまん遺跡があり、北白川下層式と諸磯B式の東西両系統の土器が出土。洞戸村にある縄文中期の笠神かさがみ遺跡では鷹島式や加曾利E式の土器も確認されている。弥生遺跡は関市を中心とした地域に遺跡が多く(一之門遺跡・塚原遺跡・重竹遺跡など)、縄文遺跡に比べて長良川と津保川の合流地点の低湿地に活動の中心が移っている。武儀川流域には武芸川町の八幡遺跡・小知野おぢの遺跡・高野たかの遺跡があり、遠賀川系の壺形土器や甕形土器が出土。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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