洞戸村(読み)ほらどむら

日本歴史地名大系 「洞戸村」の解説

洞戸村
ほらどむら

面積:四〇・一二平方キロ

県中央部、武儀郡の西の中部に位置し、村内中央を北から南東部にかけて板取いたどり川が曲流する。村の北東部に高賀こうか(一二二四・二メートル)があり、東は美濃市・郡上ぐじよう美並みなみ村、北は板取村郡上八幡はちまん町、南は武芸川むげがわ町、西は山県やまがた美山みやま町に接する。現村名は中世以来の郷名に由来するとされる。板取川と高賀川との合流点北東にある縄文前期から後期にかけての笠神かさがみ遺跡からは土器片・石鏃石錘などが出土


洞戸村
ほらどむら

[現在地名]洞戸村下洞戸しもほらど市場いちば菅谷すがだに通元寺つうげんじかた栗原くりはら飛瀬ひせ奥洞戸おくほらど板取いたどり老洞おいぼら生老しようろ松谷まつたに

現在の洞戸村および板取村の一部にあたる江戸時代の村名。「新撰美濃志」によれば、土岐政房の長臣斎藤石見守の子六郎利兼が洞戸郷に住んだという。天正一一年(一五八三)と推定される閏正月一二日の織田信孝判物(武藤文書)に「須原・洞戸両城」とみえ、羽柴秀吉方の洞戸城(跡地は不明)などが落城している。


洞戸村
ほらどむら

[現在地名]高月町洞戸

持寺もちでら村の北、洞戸山(二六八メートル)南麓丘陵と平坦地に立地。つかこし朱塚しゆづか古墳がある。中世には富永とみなが庄に含まれ、天文二年(一五三三)一二月九日の売券(井口日吉神社文書。以下同文書は省略)では洞戸良冬が同庄内の私領田一町を売っている。永禄九年(一五六六)には洞戸の吉祥寺西之坊清雄が山王社(現井口日吉神社)の宮人衆に田一段を寄進している(同年八月六日西之坊清雄田地寄進状)。同一二年の富永庄所務帳によると西之坊・行玄坊と洞戸の五郎大夫がそれぞれ杓・扇・大豆などを納めている。慶長七年(一六〇二)検地によれば田一〇町六反余・高一七三石余、畑一町九反余・高一六石余、屋敷二反余・高三石余(伊香郡志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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