日本大百科全書(ニッポニカ) 「武州世直し一揆」の意味・わかりやすい解説
武州世直し一揆
ぶしゅうよなおしいっき
1866年(慶応2)6月、武蔵(むさし)国秩父(ちちぶ)郡上名栗(かみなぐり)村(現、埼玉県飯能(はんのう)市)の農民紋次郎(もんじろう)、豊五郎(とよごろう)らが中心となり、同郡、多摩(たま)郡、高麗(こま)郡の窮民に呼びかけ、広域にわたり同時多発的に蜂起(ほうき)した一揆で、同月19日上野(こうずけ)国に波及し終局を迎えた。一揆勢は高利貸的地主や村役人に対して施金(ほどこしきん)・施米(ほどこしまい)や米の安売り、質物(しちもつ)・質地の返還などを要求した。要求項目が受諾されると村ごとに約束の実施をゆだねて、次の村に移動した。この時点で世直しの世界が形成されたことになり、打毀(うちこわし)は避けられた。要求項目が拒否されたり、約束不履行の場合は打毀が徹底的に行われた。一揆勢は、横浜貿易に参加した在郷商人をすべて打毀すという目標を掲げ、打毀に際して、窃盗、傷害、放火、女犯と武器携帯を厳禁する綱領を、周知させている。鎮圧は幕府陸軍奉行(ぶぎょう)配下の歩兵や諸藩があたり、一揆の中核は幕府農兵の武力に制圧された。
[大舘右喜]
『近世村落史研究会編『武州世直し一揆史料』全2巻(1971、74・慶友社)』▽『近世村落史研究会「幕末の社会変動と民衆意識」(『歴史学研究』458号所収・1978・青木書店)』