武庫郡(読み)むこぐん

日本歴史地名大系 「武庫郡」の解説

武庫郡
むこぐん

摂津国の郡名。古代から存在し、昭和二九年(一九五四)消滅した。「和名抄」東急本国郡部の読みは「无古」で、「延喜式」の諸処にみえる振り仮名も「ムコ」である。古代から近代まで摂津国の中央南部に位置し、郡域は東から北東にかけては川辺かわべ郡、北西は有馬ありま郡、西は兎原うはら郡に接し、南は大阪湾に面していた。現在の行政区画では尼崎市西部、西宮市・宝塚市の南部にあたり、東部で一部伊丹市にかかる地域もあった。武庫川の下流域に形成された沖積平野に展開しており、東はよも川、北は六甲ろつこう山へ連なる山地、西はしゆく川によって限られている。

〔古代〕

地名としては早く「日本書紀」神功皇后摂政元年二月条に、坂・忍熊二王の反逆に対して神功皇后は直ちに難波なにわ(現大阪市)を目指したが進むことができず、「務古水門」に帰って占いを立てたとある。また応神天皇三一年八月条に、諸国からの貢船五〇〇艘や新羅の調使が「武庫水門」に宿したとみえ、同四一年条には呉から工女を連帰った阿知使主が「津国に至り、武庫に及りて」とあり、武庫川河口付近は瀬戸内海交通の要衝であった。大化三年(六四七)一二月条に、孝徳天皇は温湯(現神戸市北区有馬温泉)の帰途武庫行宮にとどまったとあり、「摂津国風土記」逸文(釈日本紀)にも行幸についての記事がみえる。有馬への道は難波から陸路をのちの昆陽こんよう(現伊丹市)付近を経て通じていたとする説があるが、海路武庫の津門つとに上陸したとも考えられる。地名については難波の「向こうの地」との意とされるが、「住吉大社神代記」は「御子代国」が訛って武庫国となったとする。「万葉集」巻三には「武庫の泊」からこぎ出す船人が住吉の得名すみのえのえな(現大阪府)から見えるという高市連黒人の歌が収められる。

郡名は天平一九年(七四七)二月の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(法隆寺蔵)の諸国の庄をあげたなかに「武庫郡一処」とみえるのが早い。「和名抄」は賀美かみ児屋こや・武庫・石井いしい曾禰そね・津門・広田ひろた雄田おたの八郷を載せる。養老令の基準では中郡(「令義解」戸令定郡条)。現西宮市の段上だんじようが団上に通ずるところから、同地は武庫軍団が置かれた地であるとの説もあるが、確証はない。「延喜式」は当郡四座として広田神社・「名次なつきの神社」「伊和志豆いわしつの神社」「岡太おかた神社」をあげ、初めの二社は大社とする。当郡の条里は東条・西条・北条の三つからなる。東条は武庫川の左岸の武庫平野北西にある昆陽こや(現伊丹市)南西端を条里の北東隅とし、東は川辺南条、北は川辺北条と接している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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