朝日日本歴史人物事典 「武田信賢」の解説
武田信賢
生年:応永27(1420)
室町時代の武将。信繁の次男,母は武田信春の娘。治部少輔,のち大膳大夫。永享12(1440)年,兄信栄の死により家督および若狭(福井県)守護職を継ぐが,この職は信栄が将軍足利義教の命で一色義貫を謀殺した功で得たものであった。そのため一色氏牢人が徳政一揆と結んでしばしば蜂起するが,よくこれをしのいだ。文安1(1444)年に半済の実施を幕府から認められ,父が在国して支配していた本国安芸(広島県)から国人を移すなどして若狭武田氏の基礎を築いた。応仁の乱では細川勝元率いる東軍に属して奮戦したが,乱の最中に病死。法号の大通寺殿大人は7尺9寸(2m39cm)の長身にちなむという。京都の邸宅では定例の歌会を催していた。<参考文献>『小浜市史/通史編』上
(河村昭一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報