改訂新版 世界大百科事典 「国際ゴシック様式」の意味・わかりやすい解説
国際ゴシック様式 (こくさいゴシックようしき)
International Gothic Style
1370年ごろから1420年ごろにかけてヨーロッパ各地で制作された,絵画を中心に彫刻,工芸に共通してみられる様式。ゴシック様式が北フランスのイル・ド・フランスからヨーロッパ各地に伝播し13世紀に定着した後,14世紀中葉から複数の中心地の間で一方的影響ではなく,相互交流が頻繁となって均質な傾向が形成された。この成立経過の国際性から,〈国際ゴシック様式〉との呼称が生まれた。19世紀末にフランスの美術史家クラジョL.Courajodが,1400年ごろのヨーロッパ美術の〈国際的傾向〉として〈普遍的ゴシック性gothicité universelle〉を認めたのがはじまりである。事実,この概念の成立を裏づけるように,この時期には年代が確定されても,制作地の推定が困難な作品が多数存在している。
国際的交流は,1320年代すでにジョットにはじまるイタリア絵画の革新の影響として,空間の存在を暗示する立体感や遠近感表現の画面への導入や,感情表現に示される人間解釈の深化がアルプス以北の作品に散見されることから立証されているが,14世紀中葉,教皇の都アビニョンと皇帝の都プラハでの造営事業を通じて本格化する。アビニョンに集まった工人の出身地は多彩であるが,S.マルティーニ,ジョバネッティMatteo Giovanetti(生没年不詳)などシエナ派の画家が招かれ教皇庁壁画,祭壇画,写本挿絵制作などに活躍し,アビニョンを中継地としてシエナ派の影響が国際的に波及した。プラハでもカール4世が,地元のみならずフランス,ドイツ,イタリアから工人を招き,大聖堂やカールシュタイン城を造営した。プラハにはアビニョン経由で及んだシエナ派の影響もみとめられるが,カールシュタイン城内礼拝堂を飾る壁画,祭壇画に関与したイタリア人トマソ・ダ・モデナTommaso da Modena(1325ころ-79ころ)や地元の画家テオドリヒMeister Theodorichの作風には,重厚な自然主義的傾向が新たにみとめられる。しかし,いまだ各地で均質的傾向は形成されていない。
ペスト大流行のあと14世紀後半には,百年戦争,教会大分裂(シスマ)とヨーロッパ社会は混迷の度を深めるが,王侯の結婚から戦乱までさまざまな社会的変動が交流の契機となって工人,作品の移動,接触が頻繁となり,1370-80年ごろより,イギリスからボヘミアにいたる西欧・中欧各地の王侯の宮廷や都市で,絵画を中心に均質な傾向を有した作品が出現しはじめる。フランスでは王の都パリ,ベリー公のブールジュ,アンジュー公のアンジェ,ブルゴーニュ公のディジョン,イタリアではビスコンティ家のミラノ,さらに皇帝の都プラハなどの宮廷では,王侯の生活を飾る家具調度,衣服から祈禱書,祭壇画にいたるまで宗教的,世俗的題材を問わず,繊細,優雅な形態と華麗な色彩による装飾美が追求される。そのため,国際ゴシック様式の美術は〈宮廷美術〉と性格づけられることもある。このような様式化によって全般的に夢幻的雰囲気をただよわせる一方,挿話的描写を克明に盛りこみ,動植物から季節感(たとえば雪の表現)にいたるまで自然観照に基づく写実が細部に示されているのが,国際ゴシック様式の第2の特色である。この種の自然描写は,北イタリアの画家デ・グラッシGiovannino de' Grassi(?-1398ころ)やピサネロなどの残した写生帳や学術・実用書の挿絵に典型的にみられる。これは,イタリア,ネーデルラント,ドイツの都市で経済力を得,教会,王侯と並んで芸術のパトロンとして成長した富裕な市民層の日常感覚の反映を示すものといえる。
国際ゴシック様式が最も典型的にみとめられるのは,フランス王侯の宮廷で,イタリア絵画の革新の成果と接触しながら制作したネーデルラント出身の工人たち,アンジュー公のためにタピスリー(いわゆる《アンジェの黙示録》)の下絵を制作したJ.バンドル,ブルゴーニュ公に仕えた板絵画家J.マルーエル,H.ベルショーズ,ベリー公に仕えた彫刻家A.ボーヌブー,写本装飾画家J.ド・エダン,ランブール兄弟など,〈フランコ・フラマン派〉と称せられる人々の作品である。彼らはギルドの束縛をはなれ,王侯の従僕として祝祭の装置から家具調度の修理まで美術の各分野にわたって幅広く活動している。ランブール兄弟がベリー公のために制作した《いとも豪華な時禱書》の月暦挿絵には,王侯から農民にいたる日常生活の克明な観察がベリー公所領の城館を背景に典雅な様式化により表現されており,国際ゴシック様式の代表作とされる。そのほか,各地の代表的作家をあげると,ドイツ領邦ではボヘミアの〈トシュボーニュTřeboň祭壇画〉の画家(生没年不詳),ケルンの〈聖ベロニカ〉の画家〉Meister der hl.Veronika(生没年不詳),ドルトムントのコンラート・フォン・ゾーストKonrad von Soest(1370ころ-1425ころ),ハンブルクのマイスター・フランケなどがあげられる。なおボヘミアを中心にこの時期に制作された板絵や小型彫刻の甘美な聖母子像にみられる流麗な造形を〈柔軟様式Weicher Stil〉と呼ぶことも多い。イタリアではロンバルディアのみならず,トスカナで活躍したジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ,L.モナコ,マソリーノ,サセッタなどの作品までこの様式の反映がみとめられる。スペインへもアビニョンを介して影響は及び,1400年前後にはボラッサLuis Borrassá(?-1424)などの祭壇画や写本装飾に反映している。しかし,プラハを中心とするボヘミアではフス戦争,フランスではアザンクールの敗戦,ベリー公の死,ブルゴーニュ公のディジョンからブルージュへの遷都などを機に,1420年代から芸術的活動は急速に衰退する。ドイツ,イタリアでは1450年代まで国際ゴシック様式の作例がみとめられるとはいえ,1420年代になると,イタリアでのマサッチョ,ネーデルラントでのファン・アイクの作品に示されるように,絵画表現から国際ゴシック様式の童話的幻想性は払拭され,その世界は量感と質感をもっていっそうの迫真性を加えて表現され,新たな時代の到来がみとめられる。
執筆者:冨永 良子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報