日本歴史地名大系 「武茂城跡」の解説
武茂城跡
むもじようあと
馬頭中心街北側、武茂川右岸丘陵上にある中世の連郭式山城。正応―永仁年間(一二八八―九九)武茂氏の祖で宇都宮景綱三男泰宗による築城と伝える。北から本丸(三〇×一〇メートル)、二の丸(三五×六〇メートル)、三の丸(六〇×四〇メートル)と並び、さらに北側に腰郭がある。順に低くなる階段状を呈し、本丸・二の丸の周囲には空堀がめぐる。二の丸と三の丸の間は薬研堀となっていて、本丸東側には天守櫓跡とされる区画も残る。麓からの比高は約三〇―五〇メートル。
当城を拠点に武茂氏は武茂庄に勢力があったと思われ、宇都宮氏一族として時景・氏泰・綱家・持綱と継いだが、持綱が宇都宮宗家を継いだため一時断絶(「下野国誌」所収武茂系図)、永正三年(一五〇六)綱家の系譜をひく芳賀成高の子正綱が武茂氏を再興、当城に拠った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報