水戸城下
みとじようか
水戸城下は洪積台地の先端に開かれた上町(明治以後、上市という)と那珂川・千波湖に挟まれた沖積低地に開かれた下町(明治以後、下市という)からなる。
城下町としての機能が生じたのは天正一九年(一五九一)佐竹氏の水戸城進出以降と考えられるが、上町・下町の区別が判然とし、城下町として拡張整備されたのは慶長七年(一六〇二)徳川氏入城後である。元和八年(一六二二)頃から台地の東南、千波湖の東岸一帯の低湿地を埋立てて十数町の町を開き、これを田町とよんだが、寛永二年(一六二五)から同三年にかけて、佐竹氏時代から台地上の城郭の西に開かれていた大町・中町・南町などに住む町人を大規模に田町へ移動させて城下の中心とした。これを田町越という。田町越を画期として柵町門と杉山門から東を下町、西を上町という呼称が生じた。「水府地名考」に「上町と名付る始め未考。寛永の初め田町を開かれ後に下町と称せしなれバ夫に対して上町の名も起りしなるべし」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の水戸城下の言及
【水戸[市]】より
…また市内には[偕楽園],[弘道館]などの史跡,名所が多く,県立歴史館,県近代美術館,水戸芸術館などもある文化都市となっている。【中川 浩一】
[水戸城下]
常陸国の城下町。地名としては15世紀中ごろ以降から文書にみえるが,城府の名として確定したのは江戸時代初期である。…
※「水戸城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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