上町(読み)かみまち

精選版 日本国語大辞典 「上町」の意味・読み・例文・類語

かみ‐まち【上町】

  1. 〘 名詞 〙かみ(上)の町

うえ‐まちうへ‥【上町】

  1. 大阪市の中心部、東横堀川東方の上町台地の俗称。江戸時代、妾宅が多かった。上本町。

かみ‐の‐ちょう‥チャウ【上町】

  1. 京都、旧島原遊郭内の町名の一つ。三筋町の一つ。遊郭の東南の隅、中の町の南側。

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日本歴史地名大系 「上町」の解説

上町
かんまち

鹿児島城の北東、海(鹿児島湾)沿いに広がり、北は武家屋敷かみ方限に続く。宝暦期(一七五一―六四)の「通昭録」には地蔵じぞう町・やなぎ町・くるま町・和泉屋いずみや町・えびす町・はま町の六町とある。天保城下絵図も「都合上町六町」とするが、柳町・地蔵町・浜町・和泉屋町の四町名しか記していない。六町のなかでは恵比寿えびす町が古く、次いで車町、そして柳町が発展した(倭文麻環)。城下の海浜は北からいちの浜・前之まえの(城の前)大門口だいもんぐち浜と続き(麑藩名勝考)、上町の海岸は市の浜から前之浜にかけてで、古くから船溜であった。正保二年(一六四五)この海浜の崩壊石堤修復願が幕許を得て、高さ三間半・長さ五〇〇間の構築と浚渫を行うこととなった(島津国史・旧記雑録)。さらに元禄一四年(一七〇一)三月、埋立計画を幕府に申請した。理由は「島津国史」に「城下士庶宅迫隘、屡々有火災、延及城郭之故」とあり、町屋敷を新たな築地に移して武家屋敷を確保するためで(落穂集)、武家屋敷と町屋敷の混在を避けた。また堤を築いて運河を引き、堤内に小船、堤に大船の係船場を設置し、湊の整備拡張が図られた。この埋立築地三八町は町屋敷四〇ヵ所を一町と規定していたため一町取立てにはならず浜町に編入とされ、同町は手広い町となったという(同書)


上町
うわまち

水戸城北の杉山すぎやま(二の丸から杉山通への出口の門)と南の柵町さくまち(東柵町と西柵町の境の門)の西側の台地上に開かれた城下町を上町うわまちという。明治以後は上市うわいちと称する。上町の中ほどには紀州きしゆう(上金町から神応町裏まで続く堀)が南北に通り、この堀の東側を武家屋敷、西側を町家としたが、どちらも武家屋敷と町家が混在していた。

武家屋敷(侍小路)三の丸さんのまるをはじめ、西柵にしさく町・銀杏いちよう町・柵町横さくまちよこ町・元白銀もとしろかね町・田見小路たみこうじおお町・なか町・みなみ町・藤沢小路ふじさわこうじ上梅香うわばいこう下梅香したばいこう黒羽くろばね町・大坂おおさか町・神応かのう町・西にし町・さいわい町・備前びぜん町・竈神かまがみ町・天王てんのう町・天王横てんのうよこ町・神崎かみさき町・鳥見とりみ町・裏鳥見うらとりみ町・五軒ごけん町・八王寺はちおうじ町・裏八王寺うらはちおうじ町・荒木あらき町・富士山ふじさん町・撞木辻しもくのつじ信願寺しんがんじ町・裏信願寺うらしんがんじ町・与力よりき町・並松なみまつ町・さくら町・本寺もとてら町・本寺町後もとてらまちうしろ町などである。


上町
うえまち

[現在地名]鳥取市上町

馬場ばば町の南に続く山沿いの町。西になか町・大榎おおえのき町・御弓おゆみ町の武家屋敷地がある。慶安二年(一六四九)からの東照宮(現樗谿神社)勧請に伴い起立された町人地で、城下四八町の一町。町名の由来は、当初この町より上(南東)には町屋がなく城下町の上に位置するところから上町といったという(鳥府志)。また「因幡志」は東照宮が勧請されて鎮座したため尊称したことにちなむとし、一名を権現堂ごんげんどうとも称したとする。安永七年(一七七八)の家数一一五、表口間数合せて二四四間余、町役負担は東照宮御用勤の町につき免除されていた。


上町
うわまち

若松城下の郭外の町のうちおお町より東の町々三〇町の総称。甲賀こうか町より東は、文禄二年(一五九三)蒲生氏郷が新たに置いたのでしん町と称した。寛文六年(一六六六)の「会陽町街改基・惣町」には、大町とその傍出の町として、東へ大町一ノ町・同二ノ町・同三ノ町・同四ノ町と大町四ノ町の西の道場小路どうじようこうじ町、馬場ばば町とその傍出の町として、馬場一ノ町・同二ノ町・同三ノ町・同四ノ町、甲賀町とその傍出の町として大工だいく町と定めたが、「新編会津風土記」では、大町と馬場町の傍出の町は独立させて、それぞれ一之町・二之町・三之町・四之町・五之町と称した。


上町
かみまち

[現在地名]中村市ほん町二―五丁目・きよう町一―五丁目・しん町一―三丁目

中村町の主要街衢、すなわち元禄(一六八八―一七〇四)頃の今新いましん町・かご(江戸後期には京町)紺屋こんや(江戸後期には本新町・中新町・紺屋町)・本町(江戸後期には本町・上町)の総称で、一条氏時代以来の系譜を引く(→中村町

中村三万石御代之図には前記の町名がみえるが、各々の町域は確定しがたい。現在の町名に当てはめて町屋の軒数を示すと、京町一―五丁目東側六二軒、同一―五丁目西側三七軒、京町二―三丁目境の東横町南側七軒、本町二―三丁目境の西横町南側五軒、本町三―五丁目東側三二軒、同三―五丁目西側二七軒、新町一―三丁目西側二六軒、同一―三丁目東側三六軒で計二三二軒。


上町
うわまち

[現在地名]福島市上町・大町おおまち

奥州道中に沿って東西に延びる両側町。西端はもと町に接し、南に折れると本町・なか町の町並が続く。東は鉤の手となって北南きたみなみ町に続く。当町と本町の境から庭坂にわさか宿・板谷いたや峠を経て米沢に至る米沢街道が延び、町並をなした城下出口一帯は庭坂口ないしは米沢口と称された。また福島城の大手門(追手先)から北に出た角を札の辻ふだのつじと称し、さらに鉤の手のところを北進すると御山新おやましん町口に至る。いずれも当町との境には木戸が設けられた。


上町
かみまち

[現在地名]諫早市上町

諫早市中の南部、町の南東に位置する。元亀二年(一五七一)五月には湯江ゆえ(現高来町か、有明町か)の太郎次郎が伊勢参宮に赴き、その折に為替をくんだ三匁は国元に帰って、「いさ早上町」の源左衛門尉に払込まれている。同三年には「いさ早上町」の忠兵衛が替本(割符屋)として為替をくんでおり(「肥前国藤津郡彼杵郡高来郡旦那証文」宮後三頭太夫文書)、忠兵衛と、伊勢御師の宮後三頭太夫の代官として肥前国藤津ふじつ郡・彼杵そのき郡・高来たかく郡の檀那方を管掌していた十兵衛正治が商取引をしているもので、檀那らはこの手形をもって伊勢に参詣したのであろう。


上町
うわまち

[現在地名]相馬市中村なかむら 上町

慶長一六年(一六一一)相馬氏が中村に城下を置いたとき、市廛として開いた四坊の一つで、南はおお町、東は町、西は堀を隔ててさくら小路に接する。南北二町二五間、幅四間の南北に延びる両側町で(「奥相志」など)、「宇多郡村誌」には東西三八間・南北一三五間とある。中村が城下となる以前から、浜街道の鹿島かしま(現鹿島町)黒木くろきの両宿間の宿駅が置かれていた。中村が城下になった当時は唯一繁華の町で、残りの三坊である大町・みなみ(宇多川町)・田町は田圃であったといわれるが、しだいに繁華の中心は他の三町に移っていった。「奥相志」に家数五一戸とあるが、商家・貸家などに出入りがあったようで、正確な数はつかめない。


上町
かみまち

[現在地名]三木市本町ほんまち二丁目

加古川の支流美嚢みの川中流左岸に位置し、北は平田ひらた町、東は滑原なめら町、南はしん町、西はなか町。三木町の町方町の一町で、しも五ヵ町に属する。姫路に向かう道筋にある町を上・中・下に分け、その位置により上町とよばれた。慶長国絵図にみえる三木町の一部。文化元年(一八〇四)の三木町家別人数並諸商売書上写(三木市有文書)によれば家数三九・人数一九五。宝永四年(一七〇七)に常陸下館藩黒田氏が設置した陣屋がある(三木郡志)。文政六年(一八二三)中町に切手会所が開かれ、当町の作屋清右衛門ら三人は切手方引請支配を命ぜられている。翌七年切手会所は当町に移転した(同一三年「三木切手会所諸事控」黒田家文書)


上町
かみまち

高知城下郭中かちゆうの西に続く町人集住地区。西にし町ともよばれた。江戸時代中期の「高知風土記」は「西ハ観音堂堤限、東は侍小路堤限、南ハ土佐郡鏡川半堤、北ハ井口川境、凡是上町ト云、此町百間を以一町」と記す。町割はほぼ東西・南北の筋で区画され、南北に通る筋と筋の間は一〇〇間とされた。城下町形成当初、上町は郭中に屋敷地の与えられなかった足軽・武家奉公人などの下級武士の居住区域とされたという。なお郭中との間には南北に外堀が掘られ、区分けされていた。


上町
かみまち

[現在地名]行田市行田

行田町の北西部分を東西に走る両側町。時代によりほん町とも中町ともよばれたが、「要中録」は三様の呼称を記載している。「風土記稿」に「上町ハ大手門ノ前ニテ東ハ下町ニ続キ、南ハ新町ニテ北ハ北谷ノ足軽町ニ接ス、当町ニテ人馬ヲ継ク」とあり、江戸のほうから来ると日光脇往還あら町から入って上町に突当り、三差路になる所に高札場があった。脇往還に沿う上町は城の堀端から下町まで四町二三間余、上町角から城の北谷きたや木戸まで延びる北谷横町があり五五間余(忍藩領町村名鑑)

享保期(一七一六―三六)の町絵図によると、高札場前の西側は加藤十左衛門、東側は梅沢庄右衛門、その隣が古橋吉右衛門、高札の裏にあたる北側が吉羽惣太郎と町年寄の住居がここに集まっていた。


上町
うえまち

上町台地稜線の西側にあたり、東側の玉造たまつくり郷とともに近世の大坂で早くに開けた地域。延享版「難波丸綱目」は「上町」の名称について「此所は古より住吉大江の岸の上筋なる故、東堀より西、船場の地よりハ町に坂有て岸通り高し、故に上町といふなり」と記す。「家忠日記」慶長一九年(一六一四)一二月一日条に「城方大野主馬儀は道頓堀筋を持堅め候処(中略)とかく下町筋をば打捨、上町斗を持堅め可然との評議云々」とみえ、もと豊臣氏時代の大坂城下の初源的な街区で、この称は城下町経営による下町筋(船場)の発展とともにしだいに定着していったと考えられる。


上町
かんまち

[現在地名]能代市かみ

東に長慶寺門前ちようけいじもんぜん通、西におお町がある。

享保一三年(一七二八)能代町絵図(能代市役所蔵)に町名がみえる。寛保元年(一七四一)の「代邑聞見録」は建年は不明であるが、おそらく弘治年間(一五五五―五八)としている。野代山王社由来記は大町と並んで清水政吉が能代に移って初めて開いた町としている。同絵図では東西に延びる両側に町屋が並び、東と南に寺院や役屋敷を控えて大町とともに町の最も重要な地点を占めている。


上町
うわまち

[現在地名]山形市上町一―五丁目・五日町いつかまち篭田かごた一丁目

山形城下に入る羽州街道の南の入口にあたる両側町。南館みなみだて村より北に進んで正徳しようとく(現曹洞宗)の門前で右折し、五日町に通ずる。最上義光時代に町立てされ、上町あるいは上条かみじよう町と称した。城下の北西端に位置する下条町と対となる。羽州街道の入口にあたり、江戸に最も近いところから命名されたと思われる。


上町
うわまち

[現在地名]長崎市上町・玉園町たまぞのまち筑後町ちくごまち大黒町だいこくまち中町なかまち西坂町にしざかまち

中町の北、岩原いわはら川右岸にある長崎そと町の一ヵ町で、陸手に属した。中町の上手にあることから上町と称された。一六一四年(慶長一九年)イエズス会の聖体行列が上町に入ってサンタ・マリア天主堂に着き、さらにサン・ドミンゴ天主堂に向かっている(アビラ・ヒロン「日本王国記」)。元和八年(一六二二)長崎ロザリオ組中連判書付に「上町」の「るしや」「あんてれい」「寿安」が署名している。寛永長崎港図に「上町通り」と記される。寛永一九年(一六四二)の平戸町人別生所糺によれば平戸ひらど町の川崎屋助右衛門は高麗生れで、文禄三年(一五九四)頃備前岡山に行き、慶長一九年「長崎上町」に入ってキリシタンとなったが、寛永六年から同九年まで長崎奉行であった竹中采女正のとき転び、一向宗大光だいこう寺を檀那寺にした。


上町
かみまち

[現在地名]鳥栖市田代上町たしろかみまち

田代たじろ五町の一つ。長崎街道筋、中位段丘の高位部に立地する。しも町と併せてほん町といわれ、田代町成立当初からの町である。町並の長さ一一二間。上町・下町を併せた居屋敷は文政九年(一八二六)で石盛一石三斗、高六九石余、除高二七石余。一屋敷の表間口は六間(基養精細録)

代官所所在地で三ヵ寺がある。昌元しようげん寺は光林山と号し、天台宗、本尊は阿弥陀如来。もと昌元寺町にあったが、寛文四年(一六六四)今の地に移したという。しかし、存置寺調は貞享年間(一六八四―八八)の草創、僧良盛の開基としている。藩政時代には藩主宗氏の位牌所であり、境内は除地。


上町
かみまち

[現在地名]柳川市上町

なか町から北へ延びる通りに沿った両側町。町人地。北端には出橋いでのはし門がある。享保八年(一七二三)から同一一年の状況を示すとみられる町小路等絵図によれば横町を含む竈数五九。道幅は三間余・長さ六八間余。出橋(井手橋)門は城下町の北に設けられた門で、柳川城の大手門にあたる。田中吉政が柳川城を整備した折、下妻しもつま井上いのうえ(現筑後市)の社の門を移したと伝える(南筑明覧)。門の内側には勢屯せいだまりと称される空間があり、門東脇には制札場が設けられていた(柳河明証図会)


上町
かみまち

[現在地名]新発田市中央ちゆうおう町二―三丁目

町人町の中核をなす本町三町のうち、大手門を南下したところにあり、西に中町・下町と続く。三町の町裏に沿って新発田川が西流し、築城当初はここまでが城下であった。下町の地割普請が慶長一四年(一六〇九)に行われており(蕉鹿年代記)、当町と中町にはそれ以前に町場が成立していたと考えられる。同一五年頃の給知方ほど役帳(新発田市史資料)には「新発(ママ)町」として室役・酒役を納める者がかなり記され、当町など本町を中心とするものとみられる。道幅は五間五寸で最も広く(延享元年「新発田町家図」新発田市立図書館蔵)、戸数は享保一一年(一七二六)には南表四四軒・北表六二軒(「町中諸事書上」田中正治氏蔵)


上町
かみまち

[現在地名]島原市加美町かみまち

島原城の南方、ふる町の西、さくら町の南に位置する。天明三年(一七八三)上町より出火、士商五八〇余戸が延焼した(深溝世紀)。寛政四年(一七九二)島原惣町之図(長崎市立博物館蔵)に「上町」とあり、長さ一二二間・幅二間半。同年の島原大変ではまゆ山の崩壊で上町などの古町通が寸地も残さず流失(島原大変聞録)、上町(加美町とも)の流死者数二五八という(快光院過去帳・護国寺過去帳・浄源寺過去帳など)。古町の別当中村孫右衛門の管轄。嘉永四年(一八五一)「島原城下上町」で瀬戸物商を営む惣左衛門は深江ふかえ(現深江町)千蔵がもってきた百田紙一束七帖・元結三〇〇把を代銭二貫一二四文で買取ったが、これが盗取品であることが発覚、吟味を受けている(口書集)


上町
うえまち

[現在地名]姫路市飾磨区天神しかまくてんじん

飾万しかま津の岡手おかて五町のうちの一つで、おお町の西隣北寄りに位置する。元文五年(一七四〇)の地子銀高四六八匁余(姫路町飾万津町地子銀控)。弘化四年(一八四七)の飾万津中明細覚書(藤田家文書)に人数九三とあるが、これはなにかの誤りで、飾万津しかまつ町二〇町の総人数五千四八三から他の一九町の人数を差引いた四五七人が正しい。


上町
かみまち

[現在地名]能代市檜山字霧山下きりやました

おお町から南へ続き、侍屋敷が立ち並ぶ。町の長さは一三六間。「六郡郡邑記」では陪臣下町となっている。多賀谷氏の家臣は、藩主の佐竹氏からみて陪臣であり、赤館あかだて町に住む直臣の松野組下と区別された。

天保二年(一八三一)の檜山絵図(秋田県庁蔵)によれば、町の中ほどから西へ上ると、多賀谷氏居館の表門へ通じ、表門との間に枡形がある。さらに東方から小路が一本あり、しん町へ通ずる。途中に枡形がある。上町の西方、侍屋敷の裏側は檜山城跡の山麓で、木宮きのみや堂・愛宕あたご(→檜山神社が南北に離れてある。


上町
かんまち

[現在地名]飯山市大字飯山

ほん町の南に続き谷筋道に沿う南北に長い町筋。東は千曲川、西は上倉かみくら村・奈良沢ならざわ村に接する。飯山城下のうち最初にできた町人町の一つ。町の長さ四町二五間五尺、家並役四七軒、桶屋・蕎麦切屋など日用品店が多く、鞍屋・扇屋などもあった(「元禄十一年飯山城下町屋鋪検地帳」深堀竜吉氏蔵)。町南端は東西に柵を設け東側に番所を置き、これより伊勢いせ町一里塚まで一五町四九間。本町との境に枡形を作った。上町と千曲川との間は福寿ふくじゆ町の南端で侍屋敷(「御城并御家中町方惣絵図」飯山小学校蔵)


上町
うわまち

[現在地名]大館市十二所 かみ

十二所じゆうにしよ町の東部に位置する。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「上町の内南部街道関門有、侍守之今馬口労町」とみえる。米代川沿いに鹿角かづのから入る街道を軸に形成され、西はなか町、東は町および上新かみしん町・中島なかじま町。中央部から南にも田町が延びる。


上町
かみまち

[現在地名]鹿角市十和田大湯 上町

大湯おおゆの町並東側に位置し、寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に「四十六軒上町」、「北奥路程記」にも「大湯村 町造に上町家四十六軒」とある。大湯館北麓の東西に走る道沿いに形成され、上之湯かみのゆしも町と隣接。南部藩の大湯城代北氏の家臣・商人・農民が居住した。


上町
うわまち

[現在地名]大館市かみ

けい城本丸東側に隣接し二の丸内部にある武家町。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図に「上町」とある。東西に走る道路沿いに形成され、西は内堀をめぐる道路と丁字形に交わり、東は外堀をまたぎ枡形道路となる。大館所預の家士が居住したという(大館地方史)

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」や幕末の「郷村史略」に「近藤町」とあり、近世を通じこのようにもよばれたと思われる。


上町
かみまち

[現在地名]六郷町六郷 上町

羽州街道に沿いおお町の北にある。元文六年(一七四一)の「乍恐口上書を以御訴詔申上候御事」(斎藤文書)に「六郷村之内上町大町両町御百姓共極窮罷成明家多く出候御伝馬諸役相勤兼」とあり、伝馬役の負担が重く、空家が増えていた。寛保二年(一七四二)の御伝馬除屋鋪駅場方品々亀鑑(六郷町郷土史料)によればうら町・本道ほんどう町が伝馬役を免除され、当町は「七日より十三日迄上町ニ可相勤候」と決められた。



かみよしまち

[現在地名]佐賀市高木町たかきまち

やなぎ町・蓮池はすのいけ町の北側を東西に延びる町人町。承応年間(一六五二―五五)の郷村帳には記載はないが、寛政年間(一七八九―一八〇一)の郷村帳には明記されている。東は追手おうて橋より西は新堀端しんほりばたまでの二四三間である(佐嘉繁昌記)。長崎街道に面しないいわば裏町。嘉永七年(一八五四)の竈帳によれば、実竈数七五、人口は男一七八人、女一七二人で計三五〇人。


上町
かんまち

[現在地名]村上市上町

長井ながい町境の十字路から北へ直進して、おお町のふだつじまでの二町二六間の家並。寛永一二年(一六三五)の村上惣町並銘々軒付帳(本間喜千郎氏蔵)では家三六軒、大町につづいて商家が鱗次する町である。近世初めには「ふろ屋町」と称されたこともあるらしい(「村上城図」国立公文書館蔵)。前出軒付帳には飯野いいの門寄りの東側角に間口九間の風呂屋が記され、あるいはこれにちなむ名称か。


上町
うわまち

[現在地名]和歌山市上町

した町の南の東西に長い町。南に網屋あみや町・材木ざいもく(現材木丁)植松うえまつ(現植松丁)と東西に長い町が約三三間の間隔で並び(文政一三年「丁名増改時略図」田中家蔵)、「続風土記」に「四町旧和田浦鵜ノ島にあり、明応ノ比津浪により此地に引移りたる町なり、鵜ノ島は今名草郡雑賀荘松江并に北島の地なり」とある。「紀伊名所図会」にも「此四町は一くるわにして、明応年間和田うら鵜の島つなみして、大半破却におよびしより、こゝにうつして漁職をなす、初夏のころよりかつをを漁す、累世の家あり」とあり、海に面した漁業の町であった。


上町
うえまち

[現在地名]赤穂市加里屋かりや

橋本はしもと町の西にある町。花岳かがく寺の西から北の福泉ふくせん寺までの間に東西と南北に二本ずつの通りがある。南のしん町筋から福泉寺までの南北の通り一町六間、この町筋と花岳寺との間の通りは五一間、橋本町から西の九軒くけん町につながる東西の通りは六一間、町の中ほどを東西に走る通りは四六間。


上町
かんまち

[現在地名]黒石市上町

黒石陣屋の北にあたり、東はよこ町、西はもと町に接する商人町。享保(一七一六―三六)頃の黒石府家之図(浅瀬石川郷土誌)によれば、家数は二四軒。天保七年(一八三六)上町組の町人たちが、上町の米商人近江屋善助・山崎善兵衛に米の廉売を強願し、首謀者五人が逮捕されるという事件があった(黒石地方誌)


上町
かみまち

[現在地名]鹿角市十和田毛馬内 上町

毛馬内けまないの町並中央部の町人町。正徳二年(一七一二)の毛馬内絵図に「御制札上町」とある。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」には「三十一軒上町」、「北奥路程記」では「上町三拾三軒」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の上町の言及

【水戸[市]】より

…また城の東方に広がる低地を埋め立てて新たに武家屋敷にするとともに,ここに町人を大規模に移して町人町を造成(田町越え),城下商工業の中心とした。 城を挟み西方の台地上の町を上町(うわまち)というのに対し,東方の低地を下町(したまち)と呼ぶ。1651年(慶安4)には上町と下町を結ぶ全長18町の新道が完成した。…

【上[村]】より

…西部を国道152号線が通る。かつて南信濃村とともに遠山郷とよばれた秘境で,中心の上町は秋葉道の難所といわれた小川路峠の峠口の宿場であった。村域の大部分は山林・原野で占められ,養蚕を中心に茶,シイタケなどの栽培や畜産が行われる。…

※「上町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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