日本歴史地名大系 「常葉村」の解説 常葉村ときわむら 福島県:田村郡常葉町常葉村[現在地名]常葉町常葉常葉町のほぼ中央に位置し、大滝根(おおたきね)川北岸段丘上の都路(みやこじ)街道(国道二八八号)沿いに形成された宿場町。中世の常葉城下に形成された根小屋集落あるいは市場町。字富作(とみさく)に富作遺跡、字七日市場(なのかいちば)に縄文時代晩期の七日市場遺跡、字上野(うえの)・四重城(しじゆうしろ)・上井坪(かみいづぼ)に弥生土器を出土する遺跡がある。興国元年(一三四〇)正月二二日の北畠親房御教書写(松平結城文書)に「常葉城輩」、応永一一年(一四〇四)と推定される国人一揆傘連判断簡(秋田藩家蔵白川文書)に「常葉 沙弥妙重」、現滝根(たきね)町広瀬(ひろせ)の宇佐神社蔵の明応六年(一四九七)九月一九日銘の棟札に「大旦那常葉小輔」とみえ、鎌倉時代末期から有力地侍が城郭を構え、常盤郷一帯を支配していたと考えられる。その常盤城主は文永一一年(一二七四)常盤城に移った熊谷直友系で、明徳三年(一三九二)子松(こまつ)神社を再建したと伝える赤松円心系ではないと思われる。前掲明応六年の棟札には本願主熊谷聖人と大旦那常葉小輔が列記され、これによって常盤城主は、熊谷家譜(常葉町史)に記す熊谷直盛一族の常盤氏と考えられる。村内には字平舘(ひらたて)の平館跡と字舘(たて)の常盤城(旭城)跡がある。平館跡には空堀や土塁があり、周辺には古御門(こみかど)・馬場(ばば)や七日市場などの地名がある。慶安二年(一六四九)の三春領古城絵図(三春町史)によれば常盤城跡は「城主常葉甲斐 根廻り五百十八間 高廿弐間 城上無水」、本丸「三十八間」、二の丸・三の丸その他の郭が「六十六間」「三十間 八間」「三十八間 十四間」「廿四間 十四間」「三十弐間 十四間」とみえる。これらから熊谷氏が菅谷上(すがやうえ)城(現滝根町)に移った文明一一年(一四七九)以降、平姓常盤氏が平館の北東丘陵の常葉城に移り、町もしだいに東方に拡張され、荒(あら)町・横(よこ)町・中(なか)町・上(かみ)町・内(うち)町が形成されたと思われる。常盤紀伊貞規は田村隆顕に仕え、田村系譜(三春町史)によれば、その子甲斐貞久は田村隆顕麾下館主一族に列したが、田村清顕と対立し、岩城氏領へ亡命。田母神氏旧記(田母神文書)には「常盤居館大越八郎左衛門」とみえ、貞久亡命後、大越八郎左衛門が入城したと推定される。 常葉村ときわむら 茨城県:水戸市常葉村[現在地名]水戸市新荘(しんそう)一―三丁目・八幡(はちまん)町・根本(ねもと)一―四丁目・松本(まつもと)町・末広(すえひろ)町二―三丁目・上水戸(かみみと)一―四丁目・新原(しんはら)一―二丁目・石川(いしかわ)一―四丁目・松が丘(まつがおか)一―二丁目・自由が丘(じゆうがおか)・西原(にしはら)一―三丁目・東原(ひがしはら)一―三丁目・緑(みどり)町一―三丁目・元山(もとやま)町一―二丁目・常磐(ときわ)町一―二丁目・天王(てんのう)町・備前(びぜん)町・大工(だいく)町一―三丁目・梅香(ばいこう)一―二丁目など(一部を含む)水戸城下の西に続く村で大部分は上市(うわいち)台地上にある。東北は那珂川に向かって急傾斜で下り対岸は青柳(あおやぎ)村、東南は千波(せんば)湖岸の低地に臨む。城下から日光(につこう)(現栃木県日光市)・烏山(からすやま)(同那須郡)方面への街道がほぼ東西に貫き、笠間道が赤塚(あかつか)村へ、棚倉(たなぐら)街道が風呂下(ふろのした)からの舟渡しで青柳村へ通じる。 常葉村ときわむら 山梨県:西八代郡下部町常葉村[現在地名]下部町常葉下部村の北、毛無(けなし)山地の北西麓斜面に立地。毛無山地から発する栃代(とじろ)川が南部で古関(ふるせき)川(常葉川上流部)に合流して常葉川となる。集落はこれら河川の沖積地と河岸段丘上にある。常盤とも記す。境畑(さかいばたけ)・五条(ごじよう)などの小字がある。縄文時代の五条遺跡があり、五条平(ごじようだいら)(御城平)は中世に常葉氏が館を営んだところとされる。また馬場氏の屋敷もあったと伝える。天正一〇年(一五八二)八月一三日の徳川家印判状写(記録御用所本古文書)に「常葉分拾八貫文」とみえ、有賀式部助に宛行っている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by