日本歴史地名大系 「水沢市」の解説 水沢市みずさわし 面積:九五・六三平方キロ県の南部に位置し、市域ほぼ中央を北上川が南流、北端を胆沢(いさわ)川が東流して北上川に注ぐ。北上川右岸は奥羽山脈下の胆沢扇状地扇端部に立地し、ほとんどが平坦地で見分(みわけ)森(一一三・四メートル)が唯一の山。左岸は北上高地に続く丘陵地帯で大師(だいし)森(二四三・五メートル)・羽黒(はぐろ)山(一二五・一メートル)などがある。北から東は江刺市・東磐井(ひがしいわい)郡大東(だいとう)町、南は同郡東山(ひがしやま)町・胆沢郡前沢(まえさわ)町、西は同郡胆沢町・金ヶ崎(かねがさき)町。南北のおもな交通路は左岸のJR東北新幹線、右岸の同東北本線、国道四号(旧奥州街道)・東北自動車道で、新幹線の水沢江刺駅、東北本線の陸中折居(りくちゆうおりい)駅・水沢駅、東北自動車道の水沢インターチェンジがある。東西は国道三九七号(旧仙北街道)・三四三号(旧東山街道)が大動脈である。なお左岸の丘陵にはむかし金売吉次の通ったという東(あずま)街道の跡が残っている。気象条件は太平洋岸の気候区に属するが北上高地と奥羽山脈に挟まれた盆地構造となっている関係から内陸型の気候を示し、積雪・降雨・日照率など気象条件には比較的恵まれている。地名水沢は当地日高(ひたか)神社蔵千葉系図の清徳の項に「仁治三年高野山ニ登リ僧トナリ、帰国後伊沢郡水沢郷多宝院再興シ」とあるが、鎌倉時代から地名があったか否かはわからない。永正四年(一五〇七)一一月二六日の葛西左衛門尉宛行状(奥州葛西文書)にもみえるが、この文書も検討を要する。確実なものでは、天正一九年(一五九一)九月七日の大谷吉継書状(伊達家文書)に「水沢之城」とみえるのが早い例であろう。寛永六年(一六二九)一一月一一日の伊達政宗領知黒印状(同文書)には「水沢之内とちの木」「同塩竈村」とみえ、水沢が塩竈(しおがま)村のほか栃木(とちのき)村を含む地域の呼称であったことが知られる。地名の由緒は「封内風土記」に「伝云、古昔此地、有無限大湫、而沢水満巷、故号此地曰水沢云々」とあり、胆沢扇状地の扇端部にあって、流水・地下水の豊かなことから名付けられたものと考えられる。なお江戸時代には市域の北上川右岸は胆沢郡、左岸は江刺郡に属したが、左岸の現黒石(くろいし)町・羽田(はだ)町は中世までは胆沢郡であった。〔原始〕市域の北上川右岸は段丘面では胆沢段丘・水沢段丘にのっている。左岸は大久保(おおくぼ)川・大田代(おおたしろ)川などの北上川支流によって開析された丘陵地・台地である。左岸では低位の丘陵・台地を常に生活の場として利用してきているが、右岸段丘面では高位面からしだいに低位へと生活の場を移し、弥生時代以降においては沖積地の自然堤防をも利用しており、水稲耕作の普及を推定させる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by