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永井尚政 ながい なおまさ

美術人名辞典の解説

永井尚政

江戸前期の大名。下総古河藩永井家第二代藩主。直勝の長男。伝八郎・信濃守と称す。徳川秀忠近習となり、大阪の陣で活躍する。元和八年老中に任じられる。井上正就板倉重宗と共に秀忠近侍の三臣といわれた。寛文8年(1668)歿、82才。

出典 (株)思文閣美術人名辞典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

永井尚政 ながい-なおまさ

1587-1668 江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)15年生まれ。永井直勝の長男。2代将軍徳川秀忠の近習。元和(げんな)5年上総(かずさ)(千葉県)潤井戸(うるいど)藩主(1万5000石)となる。老職もつとめ井上正就,板倉重宗とともに「秀忠近侍の三臣」といわれた。寛永3年父の遺領をつぎ,下総(しもうさ)古河(こが)藩(茨城県)藩主をへて,10年山城(京都府)淀(よど)藩主永井家初代。10万石。寛文8年9月11日死去。82歳。駿河(するが)(静岡県)出身。通称は伝八郎。号は信斎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

永井尚政

没年:寛文8(1668)
生年:天正15(1587)
江戸前期の老職(のちの老中),下総古河(茨城県)藩主のち山城(京都府)淀藩主。通称は伝八郎,官職名は信濃守,父は直勝,母は阿部正勝の娘。徳川秀忠の近習となり,大坂の陣で勇戦して小姓組番頭となる。元和5(1619)年加増1万石を得て大名となる。8年老職に就任,翌9年秀忠から徳川家光への将軍譲位にともない,秀忠つき西の丸老職となる。寛永3(1626)年父の遺領を継ぎ,合わせて下総古河8万9000石余りを領知した。秀忠死後の10年に西の丸老職をやめ,山城淀10万石へ転封,八人衆の重鎮として畿内の幕政に当たる。井上正就,板倉重宗と共に秀忠近侍の三臣といわれた。

(しらが康義)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典内の永井尚政の言及

【興聖寺】より

…山号は仏徳山。道元が京都の南郊に建てた興聖宝林寺は中世の戦乱のなかで廃絶したが,その再興をめざして,1648年(慶安1)淀の城主の永井尚政が現地に造営した寺である。中興の開山は万安英種(ばんあんえいしゆ)。…

【永井氏】より

…近世大名。譜代。長田を姓としたが,徳川家康の功臣直勝のとき,長田姓は源義朝を殺害した家筋であるとのことで永井氏に改めた。永井氏が徳川氏と主従関係を結んだのは直勝の父重元で,家康の父広忠に仕え三河国大浜に居住した。直勝は小牧・長久手の戦で,池田(恒興)を討ち取る戦功をあげ,下総国古河で7万2000石を,子尚政は老中となり淀城10万石を領した。1680年(延宝8)尚長が内藤忠勝に殺害されて領地は収公されたが,弟の直円(なおみつ)が大和国新庄で1万石を与えられ,のち櫛羅に陣屋を置いた。…

【淀】より

…またここに淀藤岡城があったことは,1504年(永正1)ここにこもった薬師寺与一(元一)の敗退を伝える《細川両家記》《実隆公記》に明らかである。【脇田 晴子】
[近世]
 淀君の淀城も納所にあったが,1623年(元和9)松平定綱が淀に3万5000石で入封し(淀藩),ついで33年(寛永10)永井尚政が10万石で入り,淀城下町が整備され,淀の近世的景観が確立した。松平定綱は淀古城のつくられた納所ではなく,宇治川をはさんだ対岸の川中島に新淀城を建設,そこに池上町,下津町の城内町を形成させた。…

【淀藩】より

…1623年(元和9)伏見城の廃棄にともない京都守衛のために松平定綱が3万5000石で入封し立藩した。宇治川が淀川本流に合流する南方の川中島に築城し,25年(寛永2)完成したが,33年3代将軍徳川家光の上洛に先立ち腹心の永井尚政が10万石で,定綱に代わって淀城主となった。永井尚政の任務は,単なる京都守衛だけでなく,畿内近国支配の助言者,相談役という政治的意味が大きかった。…

※「永井尚政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

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