…山号は仏徳山。道元が京都の南郊に建てた興聖宝林寺は中世の戦乱のなかで廃絶したが,その再興をめざして,1648年(慶安1)淀の城主の永井尚政が現地に造営した寺である。中興の開山は万安英種(ばんあんえいしゆ)。…
…近世大名。譜代。長田を姓としたが,徳川家康の功臣直勝のとき,長田姓は源義朝を殺害した家筋であるとのことで永井氏に改めた。永井氏が徳川氏と主従関係を結んだのは直勝の父重元で,家康の父広忠に仕え三河国大浜に居住した。直勝は小牧・長久手の戦で,池田(恒興)を討ち取る戦功をあげ,下総国古河で7万2000石を,子尚政は老中となり淀城10万石を領した。1680年(延宝8)尚長が内藤忠勝に殺害されて領地は収公されたが,弟の直円(なおみつ)が大和国新庄で1万石を与えられ,のち櫛羅に陣屋を置いた。…
…またここに淀藤岡城があったことは,1504年(永正1)ここにこもった薬師寺与一(元一)の敗退を伝える《細川両家記》《実隆公記》に明らかである。【脇田 晴子】
[近世]
淀君の淀城も納所にあったが,1623年(元和9)松平定綱が淀に3万5000石で入封し(淀藩),ついで33年(寛永10)永井尚政が10万石で入り,淀城下町が整備され,淀の近世的景観が確立した。松平定綱は淀古城のつくられた納所ではなく,宇治川をはさんだ対岸の川中島に新淀城を建設,そこに池上町,下津町の城内町を形成させた。…
…1623年(元和9)伏見城の廃棄にともない京都守衛のために松平定綱が3万5000石で入封し立藩した。宇治川が淀川本流に合流する南方の川中島に築城し,25年(寛永2)完成したが,33年3代将軍徳川家光の上洛に先立ち腹心の永井尚政が10万石で,定綱に代わって淀城主となった。永井尚政の任務は,単なる京都守衛だけでなく,畿内近国支配の助言者,相談役という政治的意味が大きかった。…
※「永井尚政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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