公家,武家を通じて主君の側近にあって奉仕する役。〈きんじゅ〉と読むことが多い。平安時代の朝廷にもこの称呼はみられるが,職制として成立するのは,鎌倉幕府以降の武家においてである。鎌倉幕府では1203年(建仁3)将軍源実朝の元服のときに陪膳役等を務める近習の称がみえ,23年(貞応2)には六番各3人,37年(嘉禎3)には三番各6人の近習番が定められている。その後50年(建長2)には六番編成で各番16人の定員へと,組織の整備・拡大がなされた。室町幕府の職制では五番編成であったらしい。室町幕府の《建武式目》第12条に,近習は〈その器用を撰ばるべきか〉とあるが,常時主君に近侍するという役目からも,才能豊かな名門の子弟の中から選ばれるのが普通であった。戦国大名諸氏および織田・豊臣家の職制にも近習の名はみられ,平時はもちろん,戦場にあっても主君の側近にあって奉公するものであった。
執筆者:佐藤 堅一 日本近世においては制度上確立した職名ではない。《徳川実紀》の用例をみると昵近(じつきん)の者と併用され,側用人(そばようにん),側衆,小姓(こしよう),小納戸,近習番,奥医師などの総称またはその一部の者の称として用いている。鳥取藩でははじめ君側に近侍する者の総称であったが,側近の役の職名が分化し,狭義には児小姓(ちごごしよう)の元服後も主君身辺の雑務に携わった者を称するようになったという。
制度化された役職ではなく,将軍や大名の近習として主君の信任を得て政務の要職に抜擢された者をいう。近世初期の幕政・藩政に近習出頭人の存在は大きいが,とくに幕府においては初代家康から3代家光にかけて,譜代の系譜をもたぬ者が将軍の近習を形成し,それが書院番頭,小姓組番頭など親衛隊長を兼ね,さらに政治中枢に進出して幕府支配体制の確立に活躍した。そうして1630年代幕府政治機構が制度化されるに至って消滅した。80年代に創設された側用人の起源を近習出頭人に求める説が新井白石以来あるが,近習出頭人は幕政機構成立過程の存在であり,側用人はその変質段階に出現したもので,連続性はない。
江戸幕府の制度としては1643年(寛永20)創設。将軍の親衛隊の一種で,書院番,小姓組の下,小十人組の上の格付けである。年代は明らかでないがまもなく新番と改称された。ついで92年(元禄5)に同名の職が設置された。これは5代将軍綱吉が気に入りの能役者,絵師,儒学者などを幕臣に登用するために設けた役職の一つで,木下菊潭,荻生北渓などもこれに任用された。1709年(宝永6)将軍綱吉の死後廃止された。
執筆者:辻 達也
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「きんじゅう」「きんず」とも読む。主君の側(そば)近く仕えること。またその人。平安時代の朝廷にすでにこの称がみえ、鎌倉幕府には数人ずつ交代で将軍のもとへ伺候(しこう)する近習番の制度が設けられていた。また「建武(けんむ)式目」に「近習の者を撰(えら)ばるべき事」という箇条があり、室町時代にこの役が重んじられていたことが知られる。江戸幕府も初め近習を置き、そのなかから出頭人が出て政務にあずかったが、中期以降は正規の職制から近習の称は消滅した。
[松尾美恵子]
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…平安時代の朝廷にもこの称呼はみられるが,職制として成立するのは,鎌倉幕府以降の武家においてである。鎌倉幕府では1203年(建仁3)将軍源実朝の元服のときに陪膳役等を務める近習の称がみえ,23年(貞応2)には六番各3人,37年(嘉禎3)には三番各6人の近習番が定められている。その後50年(建長2)には六番編成で各番16人の定員へと,組織の整備・拡大がなされた。…
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