日本歴史地名大系 「永尾村」の解説 永尾村えいのおむら 熊本県:宇土郡不知火町永尾村[現在地名]不知火町永尾東は長崎(ながさき)村、西は松合(まつあい)村に接し、南は八代海に面し、東・西・北は山野高燥地である。村の中央に天神(てんじん)、東に南黒田(みなみくろだ)、南に河添(かわぞえ)、北に茶木迫(ちやのきざこ)、北東に西背草(にしせのくさ)、北西に北竈(きたかまど)などの字地がみえる(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は松山手永に属した。正保郷帳では田方二二九石九斗余で「日損所」とあり、畠方は六七石六斗余。明治一五年(一八八二)の戸数一〇六・人数六六一、牛一〇四・馬五、荷船五、水車一、同一六年調べの民業戸数は農業九二、旅籠屋五、石工二、大工・鍛冶職・染物職・水車職各一(郡村誌)。 永尾村ながおむら 佐賀県:杵島郡山内町永尾村[現在地名]山内町大字犬走(いぬばしり)字永尾現山内町の東端に位置し、西谷(にしたに)峠を境に現武雄市に接する。犬走村の北東。永仁七年(一二九九)六月五日の長嶋庄高瀬山田畠山野下地中分状(橘中村家文書)に「東限、楠村、直尾下、対于南、大野、直尾、至岩崎堺」とある「直尾」が「ながお」のことと思われる。慶長絵図に「長尾」とある。この地域は平安時代は長島(ながしま)庄で蓮華王(れんげおう)院領。鎌倉時代は長島庄惣地頭橘薩摩氏の領有となり、室町時代に塚崎(つかざき)庄が成立して、これに加えられ塚崎後藤氏の所領となった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by