池亀村(読み)いけがめむら

日本歴史地名大系 「池亀村」の解説

池亀村
いけがめむら

[現在地名]熊本市池亀町

東は岩立いわたて村、西は井芹いせり川を挟んで中尾なかお村、南は京町きようまち村に接する。「国誌」に「当村旧活亀村ト云、活亀荘ノ本也、今ハ池亀ト云」とある。貞治二年(一三六三)一二月二九日の大友氏時所領預置状案(大友家文書録)に「鹿子木庄内池亀」とみえ、氏時は志賀新蔵人氏房に当地を宛行っている。天文四年(一五三五)の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書)に「十七町 活亀之内下村」とみえる。

慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では、田方一〇一町二反三畝余・畠方一六〇町一反七畝余、分米二千四三四石六斗余とあり、柿原かきばる村の成道じようどう寺・円徳えんとく寺が当村内に田畠屋敷地をもち、雲岸(閑)寺は田畠一町五反余、法成寺・成福寺の屋敷二畝余・田畠一反五畝余があり、屋敷一反余と田畠二町二反三畝余をもつ神主が記される。


池亀村
いけがめむら

[現在地名]岩瀬町池亀

たか峰の南麓にあり、東は山口やまぐち村。村の北半分は山地で、ぬの川の流域水田が広がる。中世には池亀城があり、天正一二年(一五八四)に笠間氏と益子氏の激戦があった(関東古戦録)。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村山は一ヵ所で小塩こしお福崎ふくざき亀岡かめおか富谷とみや各村の入会となり、ほかに四壁山一五、御林二(一〇町八反歩)、竹藪八がある。文化期(一八〇四―一八)の戸数二五・人数九六(鍛冶一、紺屋一)、馬一〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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