日本歴史地名大系 「池田村」の解説
池田村
いけだむら
四国山地を北流してきた吉野川が東流し始めた辺りの小盆地に位置する。東は
天正一三年に蜂須賀氏が阿波国に入部すると、池田城は阿波九城の一つとして整備され、伊予・讃岐・土佐に対する押えの城として重視された。池田城廃城後は池田陣屋が置かれた。町場化した地域は
池田村
いけだむら
- 大阪府:池田市
- 池田村
五月山の南に広がり、村の西側を
正和四年(一三一五)七月一日の常行堂散所田畠注文(勝尾寺文書)に「池田分 田一段所当八斗呉庭 作人五郎左衛門尉入道池田」とみえ、当地に
池田村
いけだむら
周桑平野の西部に位置する。東は
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の
「和名抄」の伊予国周敷郡の郷名七郷の一つとして「池田」と記されているのが地名の初見で、古くから池田郷の中心地域であったと思われる。小字として字
池田村
いけだむら
- 島根県:大田市
- 池田村
正保国絵図に村名がみえ、高一千一二一石余。元禄一〇年(一六九七)の石見銀山領村々覚によれば田方九二三石余・畑方一九九石余、年貢高は米四一七石余・銀一貫五八六匁余。家数は本家一七五・門屋九一、人数一千三七。文政二年(一八一九)の家数人別牛馬調(野沢家文書)では家数二三七・人数七八四。同一三年の村明細帳(松尾家文書)によれば高にほぼ変化なく、反別田方九八町八反余・畑方六六町余、家数二五一・人数八一三。農間稼に男は薪・縄・莚作り、女は布・木綿織。古くから三瓶高原
池田村
いけだむら
石田村の西に位置し、南部は壱岐水道に臨む。南部の海岸近くに
池田村
いけだむら
現豊田町西端部、天竜川左岸に位置し、対岸は
正保郷帳に村名がみえ、幕府領。高一〇九石余(畑方)、
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
建永二年(一二〇七)二月日の安倍清宗解(宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文三)に「故池田大宮司」がみえる。建治二年(一二七六)正月一二日の尼妙阿弥陀仏譲状(同文書/鎌倉遺文一一)に「いけたのやしき」「いけた五段」があり、当地とも考えられる。乾元二年(一三〇三)六月日付で図師幸秀が注進した社領田代并立用以下目録(宗像社家文書惣目録/宗像大社文書二)に池田が載る。永享九年(一四三七)三月七日に追補された「応安神事次第」戊本・癸本にも池田郷がみえる。
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
- 大阪府:寝屋川市
- 池田村
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
- 福岡県:前原市
- 池田村
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
- 鹿児島県:指宿市
- 池田村
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
- 京都府:福知山市
- 池田村
由良川の支流
慶安五年(一六五二)の田高帳と畑高帳が残る(池田区有文書)。綾部藩九鬼氏時代の検地帳で、田高帳の末尾に上田・中田・下田の「三口畝〆拾町八畝三歩 三口歩米〆百四拾九石三升六合(中略)田畑屋舗方高合弐百弐拾弐石本高(中略)高拾五石壱斗七合新田」とある。
池田村
いけだむら
- 千葉県:鴨川市
- 池田村
池田村
いけだむら
- 滋賀県:八日市市
- 池田村
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
- 滋賀県:近江八幡市
- 池田村
池田村
いけだむら
- 兵庫県:小野市
- 池田村
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
慶長検地高目録によれば村高二三一石余、小物成二斗一升八合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑一九町六反余で高二三二石余、家数四八で内訳は本役一八、半役一七、無役一〇、庄屋・年寄・ありき各一、人数一四五、牛一八、馬五、狼煙場一(大平山)。
池田村
いけだむら
- 富山県:氷見市
- 池田村
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
- 福岡県:大牟田市
- 池田村
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
東は
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
池田村
いけだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報