日本歴史地名大系 「池田下村」の解説
池田下村
いけだしもむら
村高は古検高一千二九七石余(「下村丙午ノ春御検地帳」高橋家文書)、正保二年(一六四五)は一千二九二石余(「和泉国村高帳」鬼洞文庫蔵)。寛文六年(一六六六)に隠田についての訴人があり、堺政所水野伊予守元重と彦坂平九郎が検地を施行した。その結果、田方八三町余・畑方九町三反余・屋敷四町六反余、合計九七町余(一千二七二石余)となり、古検高より二五石余(二町五反余)の減少をみた(前掲検地帳)。次いで延宝七年(一六七九)伊勢神戸藩石川氏によって新検が実施されたが、一千三一四石余(八二町三反余)と四二石余の増加はみたものの、面積は一五町歩弱の減少をきたした。その内訳は田方六九町余・畑方九町九反余・屋敷三町三反余(高橋家文書)。
池田下村
いけだしもむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報