沢岻村
たくしむら
[現在地名]浦添市
沢岻・
大平・
経塚・
内間一丁目・
大平二丁目・
宮城六丁目
安謝川の支流沢岻川左岸の丘陵地帯に位置し、北は安波茶村および屋取の大平、西は内間村。伝承では上・下に区分され、下は呉屋村と称していたが、のち上の上沢岻が下地区に移動して呉屋村を合併、沢岻村と称したという。また下地区の西側には金城村が存在したといわれる(浦添市史・字誌たくし)。西原間切平良村(現那覇市)と城間村を結ぶ道(首里道)が樋川(沢岻樋川)付近を縦貫し、里積記に記す中間村の浦添間切番所と泊村(現那覇市)を結ぶ道も樋川前を通る。天順七年(一四六三)八月四日の尚徳王から蘇門答剌国(スマトラ)国王宛の咨文(歴代宝案第一集巻四一)にみえる人名「達古是」は沢岻の地名にかかわると考えられている。「おもろさうし」巻一五の八には「たくし」とみえる。当村の脇地頭に、正徳年間(一五〇六―二一)三司官に就任した中城按司護佐丸の孫の沢岻盛里(毛文英)がいる。第二尚氏四代尚清の名付け親として「沢岻太郎名付け」を称し、家督名・位階は沢岻親方であった(毛姓上里家家譜・「おもろさうし」)。
元和七年(一六二一)三月一六日の尚恭浦添王子朝良宛知行目録(高嶺家文書)に記された「度支村」は当村のこととみられる。絵図郷村帳に沢岻村とみえ、琉球国高究帳では高頭一九五石余、うち田一七一石余・畠二四石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 