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河尻秀隆 かわじり ひでたか

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

河尻秀隆 かわじり-ひでたか

1527-1582 戦国-織豊時代の武将。
大永(たいえい)7年生まれ。織田信秀に,ついで信長につかえる。天正(てんしょう)3年美濃(みの)(岐阜県)岩村城将となる。10年信長の武田氏攻撃の際にたてた功で甲斐(かい)一国をあたえられたが,本能寺の変後,武田氏遺臣の一揆(いっき)により同年6月18日殺害された。56歳。通称は与兵衛。名は鎮吉(しげよし)とも。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

河尻秀隆

没年:天正10.6(1582)
生年:大永7(1527)
戦国・安土桃山時代の武将。父は親重,母は織田信敏の娘。通称与兵衛。重遠,鎮吉とも称す。織田信長に仕えた。美濃攻略の諸戦,伊勢長島の一向一揆鎮圧などに功を立て,天正3(1575)年美濃国岩村城(岐阜県岩村町)の守備を命じられた。同10年の甲斐武田氏攻略では織田信忠の軍に属し,信長との連絡調整に当たった。戦後この功績により,穴山氏の所領を除く甲斐一国および信濃国諏訪郡を与えられ甲府に移るが,同年6月,本能寺の変以後の領国の混乱のなか,武田氏の旧臣により殺された。背後には追い落としを狙う徳川家康の策謀があったともいわれる。なお死没の日については15日,18日の両説がある。

(堀内亨)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

かわじりひでたか【河尻秀隆】

1527‐82(大永7‐天正10)
戦国期の武将。通称与兵衛。名は鎮吉(しげよし)とも。尾張守護代の織田信秀に仕え,その子信長の黒母衣衆となる。1569年(永禄12)美濃加茂郡勝山城主。75年(天正3)同国岩村城領5万石を領し肥前守と称する。甲斐武田氏と領国を接し,82年信長が武田氏を攻めたとき,その先鋒を務め活躍する。その賞で甲斐一国と信濃諏訪郡を与えられたが,本能寺の変後,徳川家康の扇動した一揆に謀殺される。【柴辻 俊六】

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世界大百科事典内の河尻秀隆の言及

【甲斐国】より

…81年には新府城(韮崎市)を築いてここに移ったが,時すでにおそく,翌年には信濃路から織田軍,駿河路から徳川軍に攻め込まれ,3月11日天目山麓田野(大和村)で勝頼以下自刃してはて,名門武田氏は悲劇的な滅亡を遂げた。【磯貝 正義】
【近世】
 1582年武田氏が滅亡すると,甲斐は織田信長の臣河尻秀隆の支配をうけた。まもなく本能寺の変後起こった一揆により秀隆が誅滅されたあと,甲斐をねらう後北条氏との係争に勝利を得て入国した徳川家康は,平岩親吉を甲府城代に任命した。…

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